孤独死を恐れるがゆえの行動

寿命が短くなるのが嫌、というのは合理的な理由ですが、そうではなく、「孤独死はみっともない」「嫌だ」と条件反射的に思っていろいろと行動する人もいます。

例えば、一部の婚活などもそうかもしれません。「一人で死ぬのは嫌だから」「孤独死が嫌だから」婚活を始めた、という方も結構いると聞きます。

ポイントは「死んだ後も人からどう思われるか」を気にして孤独死が嫌だ、という人が一定層いるのではないか、ということです。それは究極の他人軸だな、と思うのです。

死後の評価まで気にする必要はあるか

ですから、そこまで気にしなくてもいいのではないでしょうか。

何が言いたいかというと、(他人軸的な意味で)孤独死を恐れる必要はないということです。死ぬ瞬間は誰にでも訪れますし、その瞬間は孤独です。そして自分自身は消えてしまうのですから、そこまで気にしなくてもいいのではないでしょうか。

「終活」も、「周りの人に迷惑をかけたくない」という意味(ここに何があるか整理しておく、など)ならわかります。しかし、それもある意味では他人軸です。「死んだ後のことなんか知らない、どうでもいい」と言える人のほうが、むしろ健全な気もすると僕は思います。

お墓選びなどもそうですね。もし魂があるとしたら、「もっと良いお墓にしておけばよかった」などと思うかもしれませんが、そういう話にはならないでしょう(死後の世界は誰にもわかりませんが)。

ですから、死んだ後のことまで考えすぎるのはどうなのかな、と思うのです。もちろん、宗教上の理由などがあれば、それはまた別の話です。

孤独死を恐れるより「今」を生きること

死に際に人からどう思われるか、というのは、もう良いのではないでしょうか。

それを気にして、今の生き方を無理やり自分ではないスタイルに調整することはしなくてもいいと思います。それよりも、生きている間に自分が納得することをやる、ということのほうが、よっぽど大事だと思うからです

もし、他人からどう思われるのが嫌で、あたふたしているのだとしたら、それはやらなくていいことだと私は言いたいです。

「孤独死を嫌がる」というのは、究極の他人軸だと思います(もちろん、先ほど述べた「寿命が不本意に短くなるのが嫌」といった合理的な理由など、そうではないケースも当然あります)。それ以外の理由で孤独死を恐れることはないのではないでしょうか。

それを恐れるあまり、今の自分のやりたいことを制限したり、そればかり考えてしまったりする…。その時がいつ来るかは誰にもわかりません。「その時はその時」と思って、今やりたいことをやる。そのほうが、いざという瞬間に、よほど後悔がないと思います。

「後悔のない生き方」と「感謝」

私自身は、「いつ死んでも後悔ないようにしよう」と、自分の生き方を整えることが大事だと思って、今そう生きています。

何かあった時に「やり残したな」と思うことがあっては嫌だからです。そういう意味では今、結構「完成体」に近づいていて、もうあまり後悔することはないな、と思っています。

でも、それに気づかせてくれたのは、やはり過去の辛い経験でした。パートナーを亡くしたり、うつ病になったり、いろいろとありました。そういう思いがあるからこそ、それが見えてきたのかな、という面もあります。

辛く、寂しく、嫌な経験はいっぱいありますが、ただ、ある意味では、そういった色々な経験に感謝している面もあります。ですから、孤独死を怖がって色々動くぐらいであれば、自分の経験や、自分のやりたいこと、そして今ある世界に対して、感謝しながら生きていくほうが、よほど良いのではないかな、と思います。

※本稿は『精神科医Tomyが教える 1秒で不安が吹き飛ぶ言葉』(ダイヤモンド社)の著者による特別原稿です。