「孤独死だけは嫌だ」…精神科医の“ハッとする答え”に納得
誰にでも、悩みや不安は尽きないもの。とくに寝る前、ふと嫌な出来事を思い出して眠れなくなることはありませんか。そんなときに心の支えになるのが、『精神科医Tomyが教える 心の荷物の手放し方』(ダイヤモンド社)など、累計33万部を突破した人気シリーズの原点、『精神科医Tomyが教える 1秒で不安が吹き飛ぶ言葉』(ダイヤモンド社)です。ゲイであることのカミングアウト、パートナーとの死別、うつ病の発症――深い苦しみを経てたどり着いた、自分らしさに裏打ちされた説得力ある言葉の数々。心が沈んだとき、そっと寄り添い、優しい言葉で気持ちを軽くしてくれる“言葉の精神安定剤”。読めばスッと気分が晴れ、今日一日を少しラクに過ごせるはずです。
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「自分軸」と「他人軸」とは?
今日は、孤独死を考えようと思っています。いきなり暗いテーマだな、なんて思っているのですが、まったりと普段は避けがちな話題をとりあげてみます。
ただ孤独死の話をするのではなく、「孤独死」と「他人軸」の話をしようと思っています。
「他人軸」という言葉を僕はよく使うのですが、「自分軸」と「他人軸」という言葉があります。
「自分軸」で生きる人
自分軸の人は、自分が納得したことをやります。自分の行動が納得できるかどうか、ちゃんと考えて実行する人です。
そうすると、自分のやっていること全て、自分が納得して選んだ道なので、うまくいかなくても納得できますし、不安になる必要もありません。うまくいかなかったら「また変えよう」という気持ちになれます。
「他人軸」で生きる人
一方、他人軸の人は、何かをするときに他人のことばかり考えて、他人のことを気にしながら実行する人です。
「この人に嫌われないかな」「みっともないと思われないかな」「評価が下がらないかな」と、そういうことばかり考えてしまう人は、本当はやりたくない不本意なこともやってしまうので、生きづらくなってしまいます。自分のやりたいことや、自分の気持ちがどんどん置いてけぼりになる、という話です。
「孤独死は嫌」は究極の他人軸?
「孤独死は嫌だ」という人は結構いますが、それは究極の他人軸だなと思うのです。なぜなら、死んでしまったら、自分が孤独に死んだかどうかは、もうどうでもいいはず。
死んだらもう、どうでもいいのではないでしょうか。自分がいなくなるのです。自分の存在や概念がなくなるのですから。
自分がどんなに寂しそうな状況や、荒れ果てた状態で死んでいたとしても、それは自分ではもう認識できません。自分という存在がなくなるわけですから、誰からどう思われていても、別にどうでもいいのではないかと思うわけです。
なぜ孤独死を恐れるのでしょうか?
ただ、「孤独死は嫌」という理由は、人によって違うと思います。
例えば、「一人でいると救急車を呼べない。助けてくれる人がいれば生き延びられた命が助からない。だから寿命が不本意に短くなるのが嫌だ」という理由。これならわかります。
しかし、そうではない人もいます。「『孤独死した』と言われるのが嫌だ」「孤独死の状態で、汚く死んでいくのが嫌だ」といった理由です。
でも、それはどうなのでしょうか。人はいずれ死んでいく時、その瞬間は孤独なはずです。それに、死にそうになっている大変な時期は、自分が「孤独死しそうだ」という認識すらないかもしれません。
孤独死を嫌がるがために行動する?
もし認識できない状態でだんだん意識が薄れていくとしたら、孤独死だと気づかないかもしれない。そう思い至る前に亡くなってしまうかもしれませんし、もし思い至ったとしても、その瞬間に意識は消えてしまうわけです。
仮に、みんなに囲まれて亡くなっていくのが幸せそうに見えるとしても、それは周りの人にとってそう見えるだけかもしれません。周りの人にとっては、亡くなっていく人を見送れた、というのは良いことかもしれませんが、それはあくまで「周りの人にとっての話」です。
自分自身が、孤独死を嫌がるがために闇雲に行動するというのは、少し違うのではないかと思っています。



