米政治議論の混沌、強さか弱さか? 読者の回答Photo:Robert Alexander/gettyimages

 私は先週、ニューヨーク市長となった米国の政治家が掲げる「社会主義」と、中国の一党支配の国家体制を正当化するために使われる「中国の特色ある社会主義」の間にある 大きな違いについて書いた 。この二つを同一視することは、米国の自由の本質を誤解することだという理由を説明した。

 そして明らかに読者を不快にする疑問を投げかけた。今日の米国政治を見て、この混沌(こんとん)とした議論を根本的な強さと見るのか、それとも機能不全の兆候として懸念すべきか、というものだ。

 反響は圧倒的に大きく、情熱的で非常に思慮深いものだった。読者の反応は、米カンザス州やバージニア州からカナダ、中国の重慶まで、全米と世界各地から寄せられた。

 皆さんの回答は単純ではなかったが、主に三つのグループに集約できた。議論そのものを米国の救いと見る人、議論がすでに死んでいることを恐れる人、そして議論が米国最大の強さであると同時に危険な欠陥でもあると信じる人だ。

「根本的な強さ」

 多くの人には、議論の存在そのものが答えだった。この感情は、「混乱」は「自由」の譲れない代価であり特権だと見る読者に共有されていた。

 カナダのビビアン・キャズ氏は、公に意見を言える自由は「根本的な強さだ。議論で答えを得られるかどうかに関係なく、その言説は非常に重要だ…その自由を取り除いた瞬間、社会は死に始める」と主張した。

 ロードアイランド州のジャンビン・ウ氏は「中国では、政治的議論は主に党エリートの特権だ…対照的に、米国では政治的議論は全ての人に属する普遍的な権利だ」と書いた。ニューヨークのジン・サン氏は生物学的比喩を提示した。「米国の政治的生態系は、自己修復能力を持つ生きた有機体のようなものだ」

 事態がこれまでで最悪だと心配する人々に対して、デラウェア州のジョージ・ガウディオーソ氏は米国の分断の歴史を示し、ウイスキー反乱やジェファーソンとハミルトンの確執、そして南北戦争の重要な引き金となったリンカーンの1860年選挙での勝利を思い起こさせた。「わが国の歴史を通じて、国がどう統治されるべきかについて意見の相違があった」と同氏は書いた。「現在の混乱は、言い換えれば例外ではなく常態なのだ」