戦争が終わった途端に手のひらを返したように……零戦搭乗員が終戦直後の日本に感じた違和感とは写真はイメージです Photo:PIXTA

真珠湾攻撃において第二次発進部隊制空隊で指揮官を務めていた、元少佐の故・進藤三郎(しんどう さぶろう)さん。取材嫌いの進藤さんだったが、生前、海軍兵学校時代からのクラスメートの紹介で特別にインタビューを受けてもらうことができた。戦後80年の今、彼が当時語ってくれた戦争への想いを振り返る。※本稿は、ジャーナリストの神立尚紀『零戦搭乗員と私の「戦後80年」』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。

8月6日の原爆投下で
広島だけが色を失ってしまった

 進藤さんは昭和20年、5月3日付で筑波海軍航空隊飛行長に転勤を命ぜられ、13日に着任する。筑波空はもとは戦闘機搭乗員を養成する練習航空隊だったが、実戦部隊に格上げされ、局地戦闘機紫電で編成された戦闘第四〇二飛行隊、戦闘第四〇三飛行隊を傘下におさめていた。

 昭和20年7月になると、筑波空では、戦闘第四〇二飛行隊を進藤さんの指揮下、京都府の福知山基地に、戦闘四〇三飛行隊は、司令・五十嵐周正中佐が率い、兵庫県の姫路基地に、それぞれ展開させた。

 空襲による被害を避け、敵の本土上陸部隊を迎え撃つための訓練を重ねるためである。機種は順次、新鋭機紫電改に更新され、いずれは、九州防空に活躍中の第三四三海軍航空隊に代わる、海軍の新たな主力戦闘機隊になるはずだった。

「8月6日、広島に新型爆弾が投下され――そのときは原子爆弾とはわかりませんが――全滅した、という情報が入った。これは、うちも無事では済まんだろうと思いました。

 筑波空は三四三空と交代する予定でしたから、三四三から搭乗員をもらい受ける相談のため、9日朝早くに大村基地へ飛んだんです。ところが、この日は司令も飛行長も不在で、話をする相手がおらん。それで福知山にとんぼ返りしたんですが、そのとき、広島上空を飛んでみた。