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真珠湾攻撃以来、海軍機動部隊の零戦隊を率いて戦果を重ねてきた元海軍少佐の故・志賀淑雄(しが よしお)さん。他の零戦搭乗員の多くから慕われてきた彼が生前、自身の戦争体験を語ってくれた。※本稿は、ジャーナリストの神立尚紀『零戦搭乗員と私の「戦後80年」』(講談社)の一部を抜粋・編集したものです。
皇族とともに荒くれクラスで
鍛えられた兵学校時代
志賀さんは、大正3(1914)年、海軍中佐・四元賢助(のち少将)の3男(男5人、女3人)として東京に生まれた。
父は鹿児島出身、海軍兵学校を20期生として卒業し、日清戦争(1894-1895)に従軍。日露戦争(1904-1905)中は兵学校教官として、山本五十六(のち大将)、豊田貞次郎(同)、豊田副武(同)などを指導しており、自分の子供たちの教育にも厳格な人だった。
父の転勤、予備役編入、死去にともなって広島県の呉、三次、そして山口県と転居を重ね、山口中学校5年のとき海軍兵学校に合格。昭和6(1931)年4月、第62期生として入校した。
兵学校の気風は、クラスによってまったく別、と言っていいほどの差がある。志賀さんの62期は、伏見宮博英王(のち伏見博英伯爵・昭和18年8月26日戦死。少佐)、朝香宮正彦王(のち音羽正彦侯爵・19年2月6日戦死。少佐)と2人の皇族がいる、いわゆる「殿下クラス」だが、史上まれにみるほど気性の荒いクラスだったという。そのため、62期生が最上級生のときの最下級生・65期生は海兵史上もっとも鉄拳の洗礼を受けたクラスだと言われる。







