瀬戸内海上空から望むと、緑の山々や青い海の風景が広がるなかで、広島だけが灰色で色がなくなってるんです。これはやられたなあ、うちも駄目だ。両親が生きているとも思えん。そう思って、家の上空を旋回して状況を確認する気にもなれなかった。福知山に帰って、私が大村基地を離陸してほどなく、長崎に2発めの新型爆弾が投下されたことを知りました」
激励されたのかと
勘違いした玉音放送
そして8月15日正午、戦争終結を告げる天皇の玉音が放送される。福知山基地でも、指揮所に総員が集合してラジオを聴いた。
「しかしラジオの雑音が多くて、陛下のお言葉がなんだかよくわからない。激励されたぐらいに思って、放送が終わってから、それじゃこれから訓練だ、と、平常通り訓練を始めたんです。ちょうどその日、宝塚歌劇団の月組が基地に慰問に来ていましたが、予定通り演ってもらいました。
そうこうしている間に高松宮(海軍大佐・昭和天皇の弟宮)の使者がやって来て、終戦は陛下の御聖断であると。筑波空を指揮下におさめる第七十一航空戦隊司令部からも飛行訓練をやめろ、と言ってきました。そして五十嵐司令から、福知山にある可動機を全機、姫路基地に持ってこい、と命じられたんです」
8月21日のことである。進藤さんは、機銃弾を全弾装備して、いつでも戦える準備のできた13機の紫電改を率い、姫路基地に着陸した。
「そしたら、着陸と同時にプロペラをはずされて……」
五十嵐中佐の口から出たのは、
「本日より休暇を与える。搭乗員は皆、一刻も早く帰郷せよ」
という、思いがけない命令であった。進藤さんは、顔が青ざめるような憤りを感じた。
搭乗員たちはその場で武装解除され、着剣した衛兵の監視つきでトラックの荷台に乗せられ、姫路駅まで10キロ近い道のりを護送された。
姫路市街は、7月3日に受けた空襲で、焼け野原になっていたが、姫路城の天守閣は無事だったらしく、黒い偽装網をかぶせた姿でそびえ立っていた。搭乗員は出身地別に、山陽本線の上下の列車に振り分けられ、飛行服、飛行帽姿のまま、窓の破れた満員の客車に、押し込めるように乗せられた。
「勝手にしやがれ、どうにでもなれ」
と、進藤さんは、暗澹とした思いで広島に帰った。







