知床先端から国後島を望む 撮影:著者
2022年に起きた観光船「KAZU1」の沈没事故。死者・行方不明者は26名にのぼり、内2名の遺体は北方領土・国後島に流れ着いた。そしてその後、遺体の返還はサハリン経由で行われることとなる。なぜ国後島→根室という最短距離での引き渡しができなかったのか?その理由は1945年8月までさかのぼる。※本稿は、毎日新聞社会部根室記者の本間浩昭『見えない壁 北方四島の記憶』(KADOKAWA)の一部を抜粋・編集したものです。
突然の引き揚げ命令に
究極の2択を迫られた島民たち
戦後しばらくの間、北方四島で日ソの住民が一緒に暮らしていた時代があった。
突然降りかかったソ連軍の実効支配という現実は、平穏だった島民の暮らしを一変させた。それでも「なんとか生き延びなければ」という島民たちのがまん強さと胆力が、いつまで続くかも分からない被占領下の日々を支えたのだろう。
50人以上の元島民の話に耳を傾け、私はつくづくそう思う。ナチスによる大量虐殺の標的にされたユダヤ人と同じように、生き延びる道をひたすら探る日々だったに違いない。
最短で2年弱、最長で3年強の混住は、突然、終わりを告げた。
いずれソ連は島からいなくなるだろう、という日本人の希望的観測はあえなく外れ、日本人の方が追い出されたのだ。
「ヤポンスキー・ダモイ(日本人は帰す)」
1947年7月、スターリンは日本人の引き揚げ命令を発した。
「日本人は帰れ。島にとどまりたければ、ソビエト国民になれ」







