船には、すでに国後、択捉からの島民があふれるほど乗っていた。色丹島で得能らを乗せた貨物船は国後水道を北上、やがて船が揺れ始めた。低気圧の真ん中に突っ込んだらしい。トイレから糞尿があふれ出し、船倉にも入り込んできた。

 たどり着いたのは、三上一家と同じ樺太・真岡である。この港が、四島を追われた日本人の出国の拠点で、得能一家は、かつての樺太庁真岡中学校の教室を仕切られた収容所に入れられた。

何人もが命を落とした
劣悪な収容所生活

「板張りの2段ベッドが据えられていただけで、ふとんすらありません。やたら寒くて汚かったことを覚えています。食い物といえば、黒パンと塩漬けのニシン、それと水っぽいスープだけ。仕方なく島を出るときにリュックサックに背負ったお米を外で炊いて食べました」

 トイレは、収容所から少し離れた山の裾にあって、底が見えないほど深く掘り込まれた穴に、長さ10メートルほどの板が2本渡してあるだけだ。

「落ちたら最後、はい上がることはできません。何人もが足を滑らせて命を落としました。やがてしらみの大発生です。かゆみで体がほてり、ぐっすり眠ることもままならない日が続きました。風呂はおろか、洗濯もできません。年寄りや小さな子供が真っ先に体をこわしました。慢性的な食糧不足で、近所に住んでいた餅屋のおばあさんは、栄養失調で死にました」

 劣悪な収容所生活を語る得能の口ぶりは、いつになく重かった。

 樺太は冬の訪れが早く、厳しい。なのに、収容所には暖房すらないのである。

「朝になると、誰かが冷たくなっていました。底冷えした朝は1人では済みません。遺体は少し離れた倉庫にためられ、いっぱいになると、どこかに運ばれていきました」

島民を乗せた貨物船が
樺太を経由した理由

 貨物船に乗せられた元島民は、函館に直接向かうことができない理由すら知らされないまま樺太に向かった。

 なぜ直接行くことができないのか。私がそのわけを理解したのは、知床岬の先端近くで2022年に沈没した観光船「KAZU1」の事故(死亡・行方不明者26人)で、国後島に漂着した2体の遺体が、サハリン経由で戻されたときのことだ。