たどり着いたのは
根室ではなく樺太の真岡
貨物船は根室に向かうのだろうと誰もが思っていた。ところが、択捉島を後にしたソビエトの貨物船は、国後島でさらに引き揚げ者を乗せると、針路を北に変えた。
着いたのは、樺太の真岡だった。
作成:小林美和子 同書より転載 拡大画像表示
日本船の乗船前には、さらなる苦難も待ち受けていた。
「ソ連に関するもの、日本語で書かれたもの、写真類はみな没収されました。指輪や宝石類もすべて没収されてしまいました」
三上らは真岡の収容所で2週間ほど過ごし、日本の引き揚げ船「宗谷丸」に乗り、9月22日に函館に入港している。
致し方ない残留の末に
ふるさとの島を追われて
次に、色丹島の得能(編集部注:得能宏。当時、斜古丹国民学校に通っていた)の引き揚げ体験を記しておこう。得能の家は、天然の良港・斜古丹湾の湾口に近いソ連国境警備隊の基地の中にあり、厳しい監視下で逃げようにも逃げられず、残留を余儀なくされたのだ。
その得能にも引き揚げの日がきた。船は1週間後に来るという。
一家7人がふるさとの島を追われたのは、1947年9月28日のことだ。荷物は「自分で持てるだけ」と制限された。服の上にさらに何枚も服を着込み、靴下も重ねてはいた。
13歳の得能にとって、着ぶくれした体に背負わされたリュックサックは、ずっしり重かった。
「お米、飯ごう、保存のきく食料品、固形燃料などが入っていて、後ろにのけぞってしまうほどでした」
1万トンを超える大きな貨物船が斜古丹湾の沖に停泊し、一家は、はしけで沖まで行った。甲板までは10メートル以上の高さがあり、荷物の積み下ろしに使う「もっこ」と呼ばれるネットに入れられ、クレーンで吊り上げられたのは、どの島も共通だ。







