略奪された島々に残された日本人にとって、究極の選択を求められたのも同然だった。

 ほぼ全員が日本に引き揚げる道を選んだ。

「島にとどまりたい」という思いと、「ソビエト国民になる」という二者択一を迫られた日本人にとって、いかに「島にとどまりたい」という思いがあっても、「日本人であることを捨てる」という選択肢は、まずありえなかった。

乗船の際には荷物同然に
「もっこ」で吊るされた

 ソ連占領下で生活した島民たちは、1947年7月4日~48年10月上旬まで計7回にわたり、ふるさとの島を追われた。「正式引揚」と呼ばれる樺太経由で引き揚げた日本人は、四島全体で計8569人にのぼるとされる。

 引き揚げ時の様子を択捉島から見ていこう。最初の証言者は三上洋一(編集部注:択捉島の元島民)である。

 引き揚げのための巨大なソビエトの貨物船が択捉島留別の沖合いに現れたのは、1947年9月15日である。荷物は大人30キロ(島によって制限は異なり、自力で持てるだけの場合も)、子供は半分に制限された。当面の食糧も自前で用意しなければならず、実質的に「着のみ着のまま」で島を追われたことになる。

地図作成:小林美和子 同書より転載 拡大画像表示

 港には2万トン級の船を横付けできるような桟橋はない。沖に停泊した貨物船まではしけ(編集部注:小舟)で接近し、「もっこ」のような網袋に押し込まれ、クレーンで吊り上げられた。それこそ貨物同然の扱いである。

 乗り終えるまでにずいぶん時間がかかったと三上は記憶している。船内はすし詰め状態で、一家も船底に押し込められた。その先にどれだけの苦行が待ち受けているか、おそらく誰も想像していなかっただろう。