新刊『12歳から始める 本当に頭のいい子の育てかた』は、東大・京大・早慶・旧帝大・GMARCHへ推薦入試で進学した学生の志望理由書1万件以上を分析し、合格者に共通する“子どもを伸ばす10の力”を明らかにした一冊です。「偏差値や受験難易度だけで語られがちだった子育てに新しい視点を取り入れてほしい」こう語る著者は、推薦入試専門塾リザプロ代表の孫辰洋氏で、推薦入試に特化した教育メディア「未来図」の運営も行っています。今回は、体験格差にまつわる子育ての落とし穴について解説します。

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「体験格差」よりも本当に怖いもの

最近、「体験格差」という言葉を耳にする機会が増えました。この言葉は、子どもが育つ過程で経験できる体験の量や質が、家庭環境によって大きく左右されている現状を指しています。習い事、旅行、自然体験、文化体験、地域活動など、学校の授業以外で得られる経験に差があり、それが子どもの視野や将来の選択肢に影響を与えている、という問題意識です

講談社現代新書の『体験格差』(今井悠介・著、2024年)でも、この点は丁寧に論じられています。全国調査のデータをもとに、経済的な事情などによって「やってみたい体験」を持ちながらも、それを実行できない子どもたちが一定数存在すること、そしてその差が、自己肯定感や学びへの姿勢にも影響を与えていることが示されています。体験が少ないことで、「自分は何が好きなのか」「何に興味があるのか」を考える材料そのものが不足してしまう――これは確かに、無視できない問題です。

体験があっても、何も残らない子どもたち

ただ、ここで一つ、どうしても立ち止まって考えてほしいことがあります。

私が現場で見ていて、本当に怖いと感じるのは、「体験が少ないこと」そのものよりも、体験があっても、それが子どもの中に何も残らずに通り過ぎてしまうことです。

実際、私たちのところには、いわゆる「体験に恵まれた家庭」のお子さんも多く来ます。留学をしている、ボランティアに参加している、探究活動や課外活動もしている。一見すると、体験格差とは無縁に見える家庭です。ところが、本人に話を聞いてみると、「あまり覚えていない」「言われたから参加しただけ」「何が大事だったのかは分からない」という言葉が返ってくることが少なくありません。

この瞬間、私ははっきりと分かります。これでは意味がない、と。

推薦入試や総合型選抜は、「何をやったか」を評価する試験ではありません。その体験を通して何を感じ、何を考え、どのように自分が変わったのかを、自分の言葉で語れるかどうかを見ています。体験をした事実だけを並べても、評価にはつながりません。

高価な体験よりも、振り返られない体験のほうが怖い

ここで、体験格差の議論をもう一歩進めて考える必要があります。つまり、どんなに家庭の資本力がある家庭でも、体験を豊富に与えられる家庭でも、最終的には「親御さんが子どもにどう接しているか」による格差のほうが、はるかに大きくなってしまいがちなのです。

高価な体験をさせること自体が問題なのではありません。問題なのは、体験をさせたことで親が満足してしまい、その体験を子どもと一緒に振り返らないことです。「どうだった?」と聞くだけで終わり、「何が印象に残った?」「前と何が変わった?」「うまくいかなかったところは?」と掘り下げないまま、次の体験へ進んでしまう。そうすると、体験は記憶にも思考にもならず、ただ“消費された出来事”として流れていきます。

一方で、必ずしも多くの体験をしていなくても、親が日常の中で丁寧に対話を重ね、出来事を言葉にする手助けをしている家庭の子どもは、少ない経験からでも深い学びを引き出していきます。同じ出来事でも、「どう感じたか」「なぜそう思ったか」「次にどうしたいか」を考えることで、その体験は確実に“自分のもの”になります。
体験格差という言葉は、体験の「有無」や「量」に目を向けさせてくれます。しかし、教育の現場にいる立場から見ると、それ以上に大きな差を生むのは、体験のあとに立ち止まれるかどうか、言葉にできるかどうか、そしてそれを支える大人がいるかどうかです。

高価な体験よりも、振り返られない体験のほうが、よほど問題です。体験を「させる」こと以上に、体験を「一緒に考える」こと。そこにこそ、家庭による本当の差が生まれているのだと思います。

(この記事は『12歳から始める 本当に頭のいい子の育てかた』を元に作成したオリジナル記事です)