量子コンピュータが私たちの未来を変える日は実はすぐそこまで来ている。
そんな今だからこそ、量子コンピュータについて知ることには大きな意味がある。単なる専門技術ではなく、これからの世界を理解し、自らの立場でどう関わるかを考えるための「新しい教養」だ。
『教養としての量子コンピュータ』では、最前線で研究を牽引する大阪大学教授の藤井啓祐氏が、物理学、情報科学、ビジネスの視点から、量子コンピュータをわかりやすく、かつ面白く伝えている。今回は私たちが見ている世界と見えない世界で起きていることの違いについて抜粋してお届けする。
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見える世界と見えない世界
量子力学の世界では、対象の情報を得るために観測すると、必ず対象に影響を及ぼしてしまう。
重ね合わせがどのような状態かを知るために観測をしてしまうと、その重ね合わせは解けてしまう。
重ね合わせになっていると仮定し、その結果生じる干渉を観測することで、重ね合わせになっていたことを受け入れるしかない。
これが量子力学の直感的な理解を難しくしている点だろう。
古典力学の世界では、あなたが観測しようとしまいと、月は地球の周りを回っているし、リンゴを落とせば落下する。
しかし、量子力学の世界では、観測することで興味のある対象に影響を与えてしまう。
私たちの日常とはまったく違った世界観になっている。
オセロを例に考える
物理学は自然界の現象を観測し、その背景にあるルールを明らかにする営みである。
しかし、自然と人間との関係性は古典力学と量子力学とで大きく異なる。
この違いを説明するときに私がいつも使っている例がある。
二人の神(自然界)がオセロで遊んでいるとしよう。
観測者である私たち人類は、その神々の打つオセロをただただ横から眺めて、そのオセロのルールを解明しようと努めている。
次第に、どういうルールのゲームかは理解できるだろう。
黒と黒で白が挟まれるとひっくり返って黒になる。
最終的に色が多かったプレイヤーが勝つ。
私たちが観測しようとしまいと、淡々とオセロは進んでいく。
これが古典力学の世界だ。
神々のオセロに参戦!
一方で、量子力学の世界では、私たち観測者はオセロのプレイヤーとして神相手にオセロを打つことになる。
観測者ですらゲームのプレイヤーの一人として世界に取り込まれる。
もちろん、観測者がどこにどのコマを置くかによって、相手の次の手は変わる。
観測によってオセロの展開は変化する。
つまり、ミクロな世界は私たちが日常で体感するマクロな古典的世界とは異なり、観測者そのものがゲームのなかに取り込まれた枠組みになっている。
現在の量子コンピュータにつながる「量子物理学」という学問分野の根底には、自分もプレイヤーとなり自然界の物理法則の限界まで攻略し、それを最大限うまく使いこなすという哲学があると私は思っている。
(本稿は『教養としての量子コンピュータ』から一部抜粋・編集したものです。)





