量子コンピュータが私たちの未来を変える日は実はすぐそこまで来ている。
そんな今だからこそ、量子コンピュータについて知ることには大きな意味がある。単なる専門技術ではなく、これからの世界を理解し、自らの立場でどう関わるかを考えるための「新しい教養」だ。
『教養としての量子コンピュータ』では、最前線で研究を牽引する大阪大学教授の藤井啓祐氏が、物理学、情報科学、ビジネスの視点から、量子コンピュータをわかりやすく、かつ面白く伝えている。今回はブラックホールと量子コンピュータについて特別な書き下ろしをお届けする(ダイヤモンド社書籍編集局)。

【ホーキング博士の予言】「ブラックホール」は宇宙最速の量子コンピュータだった?Photo: Adobe Stock

ブラックホールは「量子コンピュータ」?

ブラックホールという天体には、昔から子どもたちを惹きつける不思議な魅力を持っている。
光さえ脱出できないほど強い重力を持ち、近づいたものをすべて飲み込んでしまう。

かつては理論の中だけで語られる存在だったが、2015年の重力波観測や2019年のブラックホール“影”の撮影によって、その実在が確実なものとなってきた。

近年では、単なる“重力の穴”ではなく、ある種の情報処理装置、「宇宙一速い量子コンピュータ」として語られるようになっている。

ホーキング博士の予言

その背景には、物理学者を数十年悩ませてきた「情報消失のパラドックス」がある。

量子力学の原理に従うと、すべての現象は可逆になっており、情報も含め何かが根本的に失われてしまうということは決して起こらない。

しかしブラックホールは、周囲の物質や光を吸い込み、やがて蒸発して消えてしまう。

この蒸発過程で放出されるのが、理論物理学者スティーヴン・ホーキングが予言した「ホーキング輻射」である。
ブラックホールの強い重力の壁を、量子トンネル効果で飛び越えて粒子が放出される。
この輻射は、外見上は完全にランダムであり、元の星に飲み込まれた情報を含んでいるようには見えない。

では、ブラックホールに飲み込まれた情報はどこに消えたのか?
これが情報消失のパラドックスである。

情報を“かき混ぜる”

この謎に対する重要な手がかりが、ブラックホールそのものが行っている情報処理過程である「スクランブリング」である。

スクランブリングとは、ブラックホールに落ちたほんのわずかな情報が、内部全体に瞬時に広がり、元の構造が完全にわからなくなるほど細かく混ざり合う現象だ。
例えるなら、一滴のインクが海全体に広がり、どこにあったのか特定できなくなるようなものだ。

ブラックホールはこの情報の「かき混ぜ」を宇宙最速で行う。
つまり、宇宙一速い量子コンピュータと言える。

情報が失われたように見えるのは、このスクランブリングによって単に識別不能な形にまで散らばり、宇宙空間に暗号化されてしまうという考えがある。

この理論に基づくと、ホーキング輻射によって放出される粒子をすべて回収し、暗号化された量子データを読み解くことで、原理的には元の情報を解読できる。

つまり、情報は消えているのではなく、徹底的に難読化されているのである。

宇宙の理解も前進する

興味深いことに、この研究を理解する中で量子コンピュータをエラーから守るために作られてきた理論、量子誤り訂正理論が重要な役割を果たしている。
実用を目的に作られた手法が、逆に宇宙の理解を前進させるという構図が興味深い。

また、ブラックホールのスクランブリングの速さを測る指標として近年注目されているのが、非時間秩序相関(OTOC)である。
これは「情報がどれだけ速く広がるか」を定量化する量子情報的な尺度であり、ブラックホールがいかに高速に量子情報を複雑化するかを知る手掛かりになる。

最近では、Googleの研究チームが量子コンピュータを用いて人工的に非時間秩序相関を観測し、量子プロセッサが高度なスクランブリングを実現していることを検証したことが話題になった。

自然界と量子コンピュータは表裏一体

量子コンピュータは、自然界と同じ量子力学の法則に従って動作する装置である。
このことから、量子コンピュータそのものを「攻略」していく過程で得られた知見が、自然界の理解にも直結する。

一方で、ブラックホールという究極の“自然の量子コンピュータ”を探ることによって、量子コンピュータをより賢く使うためのヒントを得て、量子コンピュータの未来を知ることもできる。

自然界と量子コンピュータは表裏一体になっているといえる。

(本稿は『教養としての量子コンピュータ』の著者が特別に書き下ろしたものです。)