量子コンピュータが私たちの未来を変える日は実はすぐそこまで来ている。
そんな今だからこそ、量子コンピュータについて知ることには大きな意味がある。単なる専門技術ではなく、これからの世界を理解し、自らの立場でどう関わるかを考えるための「新しい教養」だ。
『教養としての量子コンピュータ』では、最前線で研究を牽引する大阪大学教授の藤井啓祐氏が、物理学、情報科学、ビジネスの視点から、量子コンピュータをわかりやすく、かつ面白く伝えている。今回は量子力学と東洋思想について特別な書き下ろしをお届けする(ダイヤモンド社書籍編集局)。

【ハイゼンベルクやシュレーディンガーも興味津々】量子力学と東洋思想、仏教に共通する「不思議な世界観」とは?Photo: Adobe Stock ※画像はイメージです

量子力学と東洋思想

量子力学を学ぶと、多くの人が最初に戸惑うのは、電子の位置や速度、スピンの向きといった物理量が、観測されるまで定まっていないとされる点である。

高校までは位置や速度は定まった値をとっているし、いかなる物理量も観測される前から値をもっているはずだと、私たちは思い込みがちである。

しかし量子力学は、その前提そのものを否定する。

興味深いことに、ボーア、シュレーディンガー、ハイゼンベルグ、パウリといった量子力学創成期の天才物理学者は、この量子力学の示す自然観と東洋思想や仏教との類似性を見出している。

ボーアは、相補性の考え方に陰陽思想との共鳴を見ていたし、シュレーディンガーはヴェーダ哲学や仏教に深い関心を寄せ、パウリもまた、量子力学の背後にある認識の問題に東洋思想との共通点を感じていた。

量子の世界観と仏教の世界観

このような量子の世界観は、単なる比喩や哲学的印象にとどまるものではない。

量子力学の内部には、「物理量は観測される前から決まっている」という古典的な考え方が成り立たないことを、数学的に示す結果がいくつも存在する。

量子系の性質は、観測という行為と切り離して語ることができず、どのような測定を選ぶかによって意味そのものが変わってしまうのである

そのことを最も鮮明に示す例の一つが、コッヘン・スペッカー定理である。

この定理は、量子系の物理量に「観測とは独立に、あらかじめ値が定まっている」という古典的な実在論が、論理的に成立しないことを証明した。

どの観測設定を選ぶかによって、同じ量子状態であっても結果の意味は変わってしまう。

つまり量子の世界には、観測者とは無関係にそこに「ある」といえる固定的な性質は存在しない。
存在とは、関係の網の中で立ち現れるものなのだ。

この性質は、東洋の哲学、とりわけ般若心経に見られる「色即是空」という言葉を想起させる。

「色即是空」は、諸法は固定的な本質をもたず、縁起、すなわち関係性によって姿を現すという考え方は、量子の文脈依存性と驚くほど響き合う。

存在とは単独で実体として成り立つものではなく、他との関係があって初めて意味をもつ。
これは量子力学と仏教が、異なる言葉で語る共通の世界像である。

私個人も、仏教で使われる言葉や漢字そのものにも、量子力学との不思議な重なりを感じることがある。
たとえば「無量」という言葉は、測ることができないほどの広がりを意味するが、量子力学に現れる状態の重ね合わせや確率振幅の広がりを連想させる。

また「観音」という文字も興味深い。
「音」は波を、「観る」は観測を意味する。
偶然の一致にすぎないのかもしれないが、波として振る舞い、観測によって結果が定まる量子の姿の響きを感じずにはいられない。

インスピレーションが影響を与えている

ただし、両者を安易に同一視するべきではない。

量子力学は厳密な数学と実験に基づく科学理論であり、般若心経は人間の認識と存在の在り方を問う思想的教えである。

一方で、アインシュタインは、「神はサイコロを降らない」といって量子力学を否定したことも事実である。

物理理論を構築するのもまた一人の人間であり、その背後にある世界観や思想的なインスピレーションが、自然界をどのように捉えるかに少なからず影響を与えているのかもしれない。

(本稿は『教養としての量子コンピュータ』の著者が特別に書き下ろしたものです。)