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焼酎の世界で「百年の孤独」は特別な存在だ。だが、その誕生は順風満帆とはほど遠い。ブームに乗り遅れ、焦り、失敗し、夜の蔵で立ち尽くした1人の経営者がいた。なぜ彼は、売れ残った酒を前にして、定石とはまったく逆の選択をしたのか。※本稿は、株式会社黒木本店会長の黒木敏之『「百年の孤独」の孤独 「企業」と「町」の経営者として』(PHP研究所)の一部を抜粋・編集したものです。
焼酎ブームに乗って
山芋焼酎で勝負をかけた
私が家業を継いだのは昭和56年(1981)である。東京の大学に進み、銀座・数寄屋橋のソニービルにあったソニープラザでお世話になった後、26歳で帰郷し焼酎造りを始めた。
当時、業界は焼酎ブームの真っ只中にあった。しかし、残念ながらわが家は蚊帳の外。急成長する焼酎メーカーを横目で見ながら、小さな売れない焼酎蔵として、都会に羽ばたくことなく、地元の小さな市場の中で埋没していた。
注目を浴び、話題となる焼酎を造らなければならない。私は普通の芋焼酎ではなく山芋で焼酎を造ることを思いついた。原料が山芋である。今までどこにもなく、聞いたこともない焼酎原料だ。しかも山芋は、粘りがあり、元気が出て、精がつくイメージがある。
間違いなく話題性があり、必ず売れると思った。困惑する杜氏さんに無理を言い、山芋を集め焼酎を仕込んだ。出来上がった山芋焼酎に麦焼酎をブレンドして、都会向きのさわやかな焼酎に仕上げた。
地元の新聞に「Uターン青年が開発・山芋焼酎」という記事としても取り上げてもらい話題にもなった。
山芋焼酎は当初は売れた。全国から注文が入り、小さな蔵にとっては大変なビッグヒットだった。急遽アルバイトを数名雇い、毎日瓶詰めをした。農家の後継者を集め、「高鍋町を山芋の名産地にしたい」とも伝えた。







