
三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第128話は、SNS上で「学歴」が話題になりがちな理由を考える。
「共通言語」としての大学受験
東京大学現役合格を目指す天野晃一郎は、二次試験に向けてモチベーションを失いかけていたが、自分が集中できるスタイルを取り戻し、「受験は1日1日の積み重ね」と思い直すのだった。
前回に引き続き、「受験界隈(かいわい)」に潜むSNSの価値観の弊害について書いていこう。なぜ、これほどまでに受験に関する「格付け」や「冷笑」が、SNS上にあふれかえるのだろうか。
その背景には、受験という経験が持つ特殊な性質がある。日本において大学受験は、多くの人が通過する巨大なイベントだ。ゆえに、「共通言語」として機能しやすい。誰もが自分の体験談として語ることができるし、偏差値という数字があるため、他者との比較も容易だ。
そして何より、受験は多くの大人にとって「変えられない過去」である。もう二度と引き返せないからこそ、自分の出身校のランクを死守したい、あるいは自分が選ばなかった(選べなかった)選択肢を否定したいという心理が働く。
過去の自分を肯定したい、あるいは今の自分に満足行っていない要因を過去の受験失敗に求めたりする。「外野」であるはずの大学生や社会人が、まるで自分のことのように偏差値議論に熱くなるのはそのためだ。
なまじ厄介なのが、これらの揶揄(やゆ)や批判は一見すると明確そうな理由と結びついていることだ。だからこそ「制度設計の議論」が、容易に「その制度を利用した個人への批判・揶揄」に繋がりやすい。
あくまでネタだとわかっていても…
『ドラゴン桜2』(c)三田紀房/コルク
興味深いのは、拡散している多くの人々に、必ずしも明確な悪意があるわけではないという点だ。
ショート動画で流れてくるTier表(ティアひょう、「強さ」をランク付けしたもの)に「いいね」を押す時、あるいは「○○大はオワコン(終わったコンテンツ)」という投稿をシェアする時、そこに個別の受験生を傷つけようという意図は希薄だろう。彼らはただ、インターネット上の「ネタ」として、あるいは一種のネットミームとして、その情報を消費しているに過ぎない。
だが、発信側に悪意がなくとも、受信側である受験生にとって、それは絶対的な「評価」として突き刺さる。アルゴリズムは残酷だ。不安や対立をあおるコンテンツほど長く視聴され、拡散されるように設計されている。「指定校推薦はズルい」という極端な意見ほど、画面の向こう側で増幅され、さもそれが世論の多数派であるかのような錯覚を作り出す。
受け手も、「それがネタである」と分かっている人も多いだろう。だが、そうだとしても無意識下でその選択肢を忌避したり、自分の選択に誇りを持てなくなってしまうことに繋がりかねない。SNSに蔓延(まんえん)している価値観に惑わされないフラットな決断ができるかと言われたら、私も自信がない。
「社会に出れば学歴なんて関係ない」という言説は、実力主義への励ましとして機能する限りにおいては健全だ。しかし、それが「だから○○大学は価値がない」「推薦入学者は劣っている」という攻撃に転じた瞬間、それは教育への冒涜(ぼうとく)になる。
一般入試であれ、推薦入試であれ、あるいは浪人であれ、その選択の背景には、個人の葛藤と努力のプロセスが存在するはずだ。そのプロセスに対するリスペクトを欠いたまま、結果としての学校名や入試方式というラベルだけを見て、外野から批判・揶揄する――。それは、研究成果以上にその過程を重んじる教育機関としての大学が本来目指すべき「学び」とは最も遠い態度ではないだろうか。
受験生には、願わくばSNSのこういった情報は意識的に見ないようにしてほしいし、友人間の軽い雑談でも軽々しく学歴を揶揄するような言葉を使わないようにしてほしい。現役の受験生が「外野」になった時、「健全な外野」になれるかは今にかかっている。
『ドラゴン桜2』(c)三田紀房/コルク
『ドラゴン桜2』(c)三田紀房/コルク







