それゆえ「浮気」の関係性の中では、「絆」や「安定した愛情」につながる行動は避ける傾向にあります。あるいはそういった行動をとったとしても、前提として「本来のパートナーシップではない」上でのゲームのようなものです。端的に言うと「本気」にさせないということです。

 ただ、生理的な現象をそうそう理想通りに留めておけるわけではありません。お互いがこの前提に立って行動しているうちは「浮気」のままですが、片方、もしくは両方が「愛」を求め始めたとき、この関係性は変化を遂げます。

 片方が「愛」を求め、片方が「恋」のみを求めている場合は、関係性は破綻します。「愛」を求め始めた側が遠ざけられようとするはずです。遠ざけられた側は「愛」が「憎しみ」に変化するかもしれません。それは「愛」を求めた相手に、自分に対する「愛」がないことが明白となるからです。この場合、泥沼化します。

 また、お互いがお互いに「愛」を求めるパターンもあるでしょう。この場合は、「浮気」が「本気」になります。今まで「愛」の相手であったパートナーとの絆が弱くなり、離れようとします。そして、新たな相手との「愛」の構築を模索し始めます。つまり「浮気が本気になる」状態です。「浮気」が「本気」になったとき、何が変容するのかを考えれば、「愛」の本質に迫れるかもしれません。

期待が裏切られたとき
「愛のたまご」は「憎しみ」に

 前項で、「愛」が「憎しみ」に変わるときについて少し触れました。ここでは、さらに「愛と憎しみ」の関係について踏み込んでいきたいと思います。

 基本的に、「愛」と「憎しみ」は根底が同じものであると私は考えています。人が「愛」を求めた瞬間に、心の中に「愛のたまご」が生まれています。そして、それが「愛」にも「憎しみ」にもなりうるということです。「愛」と「憎しみ」は兄弟のようなものなのです。

 たとえば、前項で触れた「愛」と「浮気」の関係の中で考えてみましょう。お互いがあくまで「浮気」であると、「恋」を楽しむための割り切った関係であると考えている限りは「憎しみ」は生まれません。それ以上に期待するものがないからです。

書影『愛の処方箋』(精神科医Tomy、光文社)『愛の処方箋』(精神科医Tomy、光文社)

 しかし、どちらかだけに「愛のたまご」が生まれると、「憎しみ」になる可能性が上がります。「愛」は「絆」の感覚です。「絆」というのは、相手との相互作用があって成り立ちます。つまり、相手にも「愛」を期待するのです。しかし、その期待が裏切られたとき、「愛のたまご」は「憎しみ」になります。

 つまり、「愛」と「憎しみ」の違いは、「期待」に対する結果の違いなのです。相手から「愛」を得られていると実感できていれば、「愛のたまご」は「愛」に成就します。しかし、そうならなかった場合、「愛のたまご」が「憎しみ」に変貌するというわけです。「恋」や「好意」に戻ることができれば問題はないのでしょうが、人間の感情がそう簡単に調整できるはずもありません。期待通りにならない場合は「憎しみ」になる可能性が高くなります。

 この「愛のたまご」は、「憎しみ」に変化するだけではありません。「愛」に成就しなかった場合、「愛に似て異なるもの」になります。それは時に「歪んだ愛」などと表現されることもあるでしょう。しかし、私は敢えてそれを愛とは区別し、「愛もどき」と名付けたいと思います。