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2026年の干支は「丙午(ひのえうま)」。江戸時代から、丙午生まれの女性を差別する迷信があり、この年に女児を産むのを避ける傾向があった。おかげで明治も昭和も、この年だけ人口が極端に少ない。特集『総予測2026』の本稿では、360年にわたる丙午の迷信の実態と、60年ぶりに訪れる令和の丙午の行方を占う。(Diamond WEEKLY編集部 深澤 献)
人口統計に“大異変”をもたらした
あの「丙午」がまたやって来る
自分の干支を聞かれ、「戌(いぬ)です」「丑(うし)です」と十二支で答えられる人は多いだろう。しかし、本来の干支は“十干十二支”を指す。「十干は?」と問われて答えられる人は少ないのではないか。
だが1966年生まれの世代だけは例外だ。彼らは自らを「丙午(ひのえうま)」と即答できる。ただ、必ずしも干支に詳しいわけではなく、十二支はまだしも、十干を全て言えるかも怪しいだろう。ただ「丙午」という言葉が強烈に記憶されているのだ。
その理由は、この年に起きた異常な出生数の落ち込みにある。66年の合計特殊出生率は1.58と前後の年より急減し、出生数は前年比で約25%減の136万人にとどまった。日本の人口統計上でも特異な「大異変」である。
1966年の合計特殊出生率は前年の2.14から1.58に急落し、67年には2.23に回復した。日本の人口史に残る異常値を示している 拡大画像表示
その原因は、「丙午の女は情熱的で、夫を食い殺す」という迷信だった。
この根拠のない風説は、江戸時代の寛文6(1666)年生まれの女性を発端に、実に360年もの間、女性の人生に深刻な影響を及ぼしてきた。過去には、丙午の女子を避けるために堕胎や嬰児殺しが横行し、無事に生まれた子でも、根拠なき差別に苦しみ、自死に追い込まれた例が少なくない。
こうした迷信が明治以前に存在していたのは、ある意味で「時代の限界」として理解できるが、人類が宇宙へと飛び立とうとしていた昭和の高度成長期にすら、丙午の出産はなおも忌み嫌われ、66年には出生数が異常なまでに落ち込んだ。決して、当時の日本人が迷信を頭から信じていたわけではないだろう。にもかかわらず、社会構造を揺るがすほどの“産み控え”が起こった背景には、さまざまな問題が横たわっている。果たして、この忌まわしい迷信はいかに広まり、360年間も温存されてきたのか。
そして、干支は60年で一回りする。2026年は、60年ぶりの「丙午」の年となる。“令和丙午”も、またもや同じ悲劇が繰り返されるのだろうか。
江戸時代から360年も続いてきた丙午の迷信と差別とはどのようなものなのか。昭和丙午の“産み控え”はどのような背景で起きたのか。次ページでは、迷信を定着させた江戸時代の“エンタメメディア”の実態や、明治や昭和の丙午で面白おかしくこの話題を取り上げた新聞、テレビ、雑誌などのメディアの責任にもメスを入れつつ、“令和丙午”の行方を占う。
(参考文献:『ひのえうま360年史 差別・堕胎・自死…日本が信じた最悪の迷信』〈深澤 献著〉)







