「裏切り」ではなく合理的選択
美濃三人衆から見れば、信長は桶狭間で今川義元を討ち、外交でも優れた実力者です。一方の龍興は、助言も聞かない若く我儘な主君。
美濃三人衆にとって、誰を主君に据えるかの判断基準は、あくまで誰が美濃を守れるかであり、その答えこそが信長だったのです。
そして永禄9(1566)年、美濃三人衆は信長に人質を送り、稲葉山城を差し出しました。美濃三人衆に裏切られ……というか見捨てられ、美濃から逃げ出す羽目になった斎藤龍興は、伊勢の長嶋へ亡命。本拠地を稲葉山城とした信長は、この地名を「岐阜」と改め、稲葉山城を岐阜城と改名したのでした。
斎藤家が三代で滅びた理由
斎藤家が三代で滅びたのは、国人の力が強い土地柄であったこと、斎藤義龍の急死による政権の弱体化、龍興の失政、そして信長の台頭といった複合的な要因によるものです。美濃三人衆の行動は、単なる裏切りではなく、戦国の論理に基づく合理的な選択だったのです。
『豊臣兄弟!』第9回より、安藤守就(左)と斎藤龍興(右) (C)NHK
次ページの動画ではこの他、
・国を追われた斎藤龍興のその後
・美濃三人衆のその後
・稲葉一鉄の栄達
・氏家卜全の最期
・安藤守就の悲劇
といった内容についてお話しています。気になった方は、動画をご覧ください。







