ミルトン・スネイバリー・ハーシー(1857~1945)はハーシーのチョコレートバーを世界に広めた起業家だ。事業を始めたときにはそれほど若くなく、製菓業から身を起こしながら結局は失敗する。本当に成功をおさめたのはやっと30歳代後半になってからで、ランカスターキャラメル社を設立し、のちにこれをライバル会社に高額で売却している。
1893年、ハーシーが歴史に記録されるのにふさわしい出来事が起こる。この年、シカゴの国際見本市でチョコレートの製造機にめぐり合ったのがそれだ。ハーシーはチョコレートに精力を集中し、ミルクチョコレートの製造法を完成させ、大量生産方式を取り入れて、チョコレートビジネスを育て上げ、さらに、ある町を発展させ、ハーシーと呼ばれるまでにした。
成功への階段
1857年9月13日に生まれたミルトン・スネイバリー・ハーシーは、ペンシルベニア州ホッカーズビルで育つ。そこは小さないなか町で、教室が1つしかない校舎で勉強した。両親は農業を営んでいたため、非常に小さいときから農場で家畜に餌をやったり雑用に精を出したりと、家の手伝いをさせられていた。
いくつかの学校で勉強したが(グリーンツリーのビレッジアカデミーという私立の高校もその1つだが、成績はよくなかった)、ハーシーは勉強をあきらめ、ランカスター郡のギャップにあるドイツ語の新聞社の見習いとなる。働き始めるとすぐに、自分には新聞雑誌や出版の才能がないことを思い知る。この新聞社を辞め、ランカスターのジョセフ・H・ロイヤーの店で菓子の見習い職人の仕事を見つけた。
彼は大きな希望を持つ若者だった。19歳のとき自分の会社、MSハーシー社を設立している。菓子の卸・小売業だったがうまくいかず、1882年に売却。その後数年間、ハーシーは菓子製造で身を立てようと国中を旅してまわった。コロラド州のデンバーでキャラメルのつくり方を身につけたり、ニューヨーク市では街頭で自分のつくった菓子を売った。こうした試みはどれも成功しないまま、ランカスターに戻った。最初に事業に失敗したランカスターで、ハーシーはやっと成功といえる成果をおさめることになる。
ハーシーはキャラメル製造の実力を仕事に活かした。事業に取り組んだ当初から、基本にしたのは製品の品質だった。「すぐれた品質を提供しよう。それがこの世界で最高の広告だ」がそのモットーだ。ハーシーのキャラメルが菓子の輸入業者の目に止まり、イギリスに持ち込んで売ったことがきっかけになり、事業が軌道に乗り始めた。