外出先から戻るのを待っていたかのように、江木から手招きされた秋都は、外回り用の業務カバンを提げたまま、支店長席の前に立った。課長席から戸倉がやってくるのを待って、

「この融資なんだが、ウチでやらないとダメか」

 江木は、改まった口調でそうきいてきた。

 江木の前にはプリントアウトされた秋都の稟議書が置かれていて、赤ペンで記入された数字やチェックが見える。眉根を寄せた江木の険しい表情と、傍らに立った戸倉の難しい顔を見たとたん、嫌な予感がした。

「資金繰り表の通りで、この融資がないと同社は行き詰まります」

 秋都の返事に、

「まあ、それはわかる」

 江木は椅子の背に凭れると、冷徹な眼差しを秋都に向けてきた。「私がいっているのは、ウチがやるべき融資なのかということだ。担保、ないんだよな」

「ありません」

 担保とは、借金のカタのことである。町村の自宅や、多少の株などの資産は、過去の融資の担保としてとうに差し出されて余力はない。

「私は、この融資、“信用”ではやりたくないな」

 江木のひと言に、秋都は冷たい塊が胃の底めがけてすっと落ちていくような感覚を覚えた。信用とは、担保なしでの融資のことだ。相手の返済が滞れば、その分損失になる。

「だいたい、私からのアドバイス、無視しているじゃないか」

 江木に指摘され、秋都は答えに窮した。

 コピ・ルアクに対する前回の融資は、ちょうど江木が支店長として着任早々に申し込まれた。金額は一千万円。このとき秋都が書いた稟議書には、承認にあたってある注文が付いた。

 この融資の実行後、江木が提案する経営再建計画を検討することである。

 その提案とは、廉価なメニューを開発し、顧客層を若年化させるというものであった。

 もちろん、その提案を町村に伝えたことは伝えた。が、検討の末、町村はそれを採用せず退けたのだ。
「それをやったら、ウチじゃなくなっちゃうな」

 そのとき、町村はそんなひと言に加え、こうもいった。「結局、大塚家具はニトリにはなれなかったでしょ。同じですよ。安くすれば売れるなんて幻想だ」

 高級路線だった大塚家具が、泥沼の社長交代劇の末、廉価路線に転向したものの失敗、経営が迷走したことを、町村は引き合いに出したのだ。

「無視したわけでは……。町村社長の方針に合わないとのことで」

 言葉を選んだつもりだったが、江木の目の奥に怒りの焔が浮かぶのが見えた。

「方針に合わない? だったらどんな方針ならいいんだ。結局、赤字続きじゃないか」

 江木が不機嫌に言い放つ。「やるべきこともやらずに、カネだけ貸せ、か。そんな放漫経営に付き合えっていうのか」

 隣の戸倉が細い息を吐き出した。

 まさか――融資を断るつもりか。

 それは、コピ・ルアクへの死刑宣告に等しい。

 俄には信じられない思いで、秋都は江木の顔をまじまじと見つめた。担当として何か反論しなければならないことはわかる。

 だが、頭の中は真っ白だ。どうすれば江木を翻意させられるのか、見当もつかない。

「だいたい、君も君だ」

 江木の矛先は、町村から秋都へと向けられた。「融資担当なんだからさ、社長を正しい方向に導いてやらなきゃダメじゃないか。言うだけいって、後は知らんぷりはないだろう」

「そんなつもりでは――」

 言いかけた秋都を、

「申し訳ございません」

という戸倉のひと言が遮った。「おい」、という押し殺したひと言で、秋都も腰を折る。

「申し訳――ありません」

「課長とも相談したんだが――」

 頭を上げた秋都に、江木の言葉は続く。「この融資、見送ることにした」

 戸倉が唇を噛んでいる。

 長く融資の現場を歩んできた取引先課長である戸倉は、面倒見のいい男であった。取引先に対する視線も温かい。

 一方の江木は本部生活が長い“官僚”で、数字しか見ない合理主義者だ。

 これは江木支店長の――暴走だ。

「ちょっと待ってください、支店長。それは困ります」

 慌てて口にしたものの、秋都が見たのは憎々しげな色を浮かべた暴君の眼差しであった。

「寝言をいわれては困るな。むしろ困っているのはこっちの方だ、雨宮」

 東京中央銀行の中で、日本橋支店長はエリート中のエリートだ。同期トップをひた走ってきたこの男にとって、己は常に正しく、その発言に周囲は平伏してしかるべしである。

 これは、意趣返しではないか――秋都の胸にそんな思いが過ったのはそのときだ。

 自分の提案を反故にした相手に対する、与信判断という名目の仕返しだ。

「たしかに、ウチからの提案は受け入れられませんでしたが、町村社長も経営改善のために努力されているんです」

 かろうじて秋都は反論を試みた。「仕入れルートを見直して利益率を改善していますし、今年からは月ごとにランチメニューを新しくして常連客にも喜ばれています。売上げも少しずつですが上がってきていますし――」

「数字、ほとんど変わってないじゃないか」

 一段と声高になった江木に、フロアが固唾を呑んで静まり返っている。

 いま何が起きているのか、その場にいる全員がわかっている。

「なあ雨宮。ゾンビ企業って知ってるよな」

 江木はなおもいった。「自然淘汰されてしかるべき企業が、無用の融資で生きながらえる。日本経済の病根だ。カネがないと潰れるからといってカネを出したところで、また遠からぬ先、同じことが繰り返される。そのときはもっと赤字が膨らんでいるだろう。そんなことに付き合っている暇はない」

 町村の人なつこい笑顔が脳裏を過り、秋都は唇を噛んだ。

 コピ・ルアクは決してゾンビ企業などではない。

 コロナ禍で深い傷は負ったものの、町村の地道な努力で客足は戻りつつあるのだ。たしかに、江木がいうように数字にはまだはっきりと表れてはいないし、赤字解消までには時間が掛かるかも知れない。だが、町村のカフェは常連客に愛され、確実に前進している。だいたい、三十年もの業歴があるカフェがゾンビであるものか。

 融資担当者として、そのことを町村に成り代わって主張する義務が、自分にはある。そう秋都は思った。

「支店長、たしかに明確な変化とはいえないかも知れませんが、客足は徐々に戻りつつあります。なんとか、もう一度、支援させていただけませんか」

「いまなら、担保の範囲内だ」

 江木は、秋都の主張など無視して銀行の論理を振りかざした。「いまこのカフェに五百万円出したところで、何か月もつっていうんだ。遅かれ早かれ店を畳むなら、早い方がいい。それを教えてやるのも、我々の務めなんじゃないか。なあ、課長」

 同意を求められ、「はい」、と戸倉の短い返事があった。表情は硬い。表向き肯定はしている。だが、本心では承服しかねているのがわかる。事前の話し合いで、江木に押し切られたのだろう。

 こうなってしまうと、もはやどうすることもできなかった。

「町村社長には、今回の融資は難しいと、そう伝えてきてくれ」

 江木はいうと、話は終わりとばかり、未決裁箱に入っていた別の資料を手に取り、

「なんだ雨宮、その顔は」

 不満そうにしている秋都にいった。「いいか。私はこのカフェに潰れろといってるわけじゃない。融資を断れといってるんだ」

 同じことじゃないか――そう思ったが、いったところで無駄である。

 この街の人たちに長年親しまれてきた老舗カフェはこのとき、創業以来最大の危機に瀕したといっていいだろう。

 黙礼して江木の前から下がった秋都は、息詰まるほどの緊張と悔しさに天井を仰いだ。

 そしていま――秋都はテーブル越しに町村と向かいながら、どうこたえたものか思案している。しかし、出てきたのは、

「すみません」

 というありきたりな謝罪のひと言だ。「なんとか支店長を説得しようとしたんですが、力が及びませんでした。申し訳ないです」

 深々と頭を下げる。

 下げながら、「情けないです」、の間違いじゃないかと自問している自分がいた。

 深い嘆息が返ってきた。

「それはもう動かせない最終決定なのかな」

 感情が抜け落ちたような町村の目が、真っ直ぐに秋都に向いている。

「残念です」

 返事はないが、無数の、声にならない言葉が町村から発せられているような気がした。やがて、
「ひとつ確認していいですか」

 町村が問うた。「今回の融資はできないということだけど、いまある融資まで返してくれとか、そういう話ではないですよね」

「もちろんです」

 こたえたのは戸倉だ。「延滞もありませんし、いままで通りで結構です」

「まだ死んだとは思われてないわけだ。それだけは救いかな」

 そういって町村は椅子の背に凭れると、エプロンの上で両手を組んだ。そして、少し遠い目を秋都たちの背後にある空間に向ける。

「実は、ぼくのコーヒー好きは、親父の影響なんですよ」

 町村はいった。「親父は横浜にあるコーヒー豆も扱う食品の専門商社に勤めてたんです。我が家ではいつもコーヒーは手回しのミルで挽いて、ドリップで落として淹れてましてね。子供の頃から飲んでました。親父は定年退職したら、カフェをやりたいと思ってたみたいだけど、その前に病気で死んじゃって。母も後を追うように……。ぼくには、神奈川の実家と、親父が開店資金として貯めた預金だけが残った。これはもう自分がやるしかないと、思い切って会社を辞めて、親父の夢に乗っかったんです。親父の夢がぼくの夢になったんですね」

 町村の自分語りにどう返事をしていいものか、秋都にはわからなかった。町村にとっては夢でも、支店長の江木にしてみればそれはただの現実、数字に過ぎない。

 この店で出すコーヒーには、町村の愛情と確固たる信念がある。

 客もそれを期待して、ここに来る。

 コーヒーの単価を下げれば客が増えると思うのは、数字しか見ていない人間の思い込みである。
なぜ、そんな安直な発想を自分のところで論破できなかったのか。それが悔しかった。

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