銀行の異動サイクルは二、三年。いまの秋都はいつ転勤してもおかしくない状況だ。その転勤先がどこになるかは、支店長の腹ひとつで決まる。
「わかってます」
視線を逸らした秋都は、肩を落としてこたえた。
率直にいって、いまの秋都は江木の覚えがめでたいとはいえない。
関係が悪化したのは、一年ほど前にさかのぼる。きっかけは、融資案件会議でのあるやりとりだった。
手持ちの案件について発表していた秋都に、
「おい、雨宮」
江木が怒りを含んだ声で割って入った。「ヤエスパワーの十億円はどうした」
ヤエスパワーは秋都の担当先で、年商三百億円のバッテリーメーカーである。
「あれは、必要ないとのことでした」
秋都の返事に、「どういうことだ、それは」、江木の表情はたちまち強ばった。
先日、新任挨拶後の取引先回りで、ヤエスパワーを訪ねた江木が、社長相手に運転資金を売り込んだ。ところがその後、秋都が話をまとめようと同社に出向いたところ、経理部長の逆川功治が困り切った顔で告げたのだ。
「いやあ、お宅の支店長さんが強引に十億借りてくれって社長に頼み込んでさ。社長も検討しますってこたえちゃったけど、困ったよ。正直、必要ないんだよね。たち悪いね、お宅の支店長」
秋都が入行三年目のヒラ行員ということもあって、逆川は遠慮がない。「なんとかしてよ」
支店長のセールストークには、「いつも業績がいいときばかりじゃないですから」という脅し文句も入っていたらしい。いうことを聞かないと、業績悪化の折は融資しないという意味だ。「平成」を通り越して「昭和」の営業である。
それを聞いて秋都は、それ以上話を進めることをしなかった。
「逆川部長からは、いずれ必要になったらお願いすると約束していただいてます」
こたえた秋都に、面目を潰されたと思ったのだろう、
「君は私の顔を潰すのか?」
江木はすっと目を細めて秋都に針のような視線を向けてきた。「私が約束を取り付けてきたんだ。なんでもっと押さない。それが君の仕事だろう」
すみませんでした、と引き下がるべきだったろうか。だが、秋都はそうしなかった。
「資金需要がないのに貸すのはどうかと思います」
思いがけない反論に、同僚たちが頬を強ばらせて固まった。しんとした会議室で息を呑んでいる。少し離れたところでは、戸倉が難しい横顔を見せていた。
「銀行の儲けのために、実需がないところに融資するのはお客様第一とはいえないのではないでしょうか」
江木が見せたのは猛烈な不満顔だ。いまにも、
――ふざけるな!
そんな大声の一喝を覚悟した秋都だったが、江木は周到だった。人事部にいたこともある江木は、パワハラにならないよう、うまく立ち回る術がある。
「ほう、そうか。わかった」
答えはそれだけであった。それで終わり――。拍子抜けするような一幕である。だが、執念深い江木が、秋都を許すことは決してなかったのだ。
以来、稟議には細かく難癖をつけられ、会議では重箱の隅を突くような質問が飛んでくる。どれも正当な範囲内で。パワハラ未満、普通以上の厳しさで――。
「とにかく――」
そのときのことを思い出していた秋都に、焼き鳥屋のカウンターと戸倉の顔が戻ってきた。「これまでのことは考えてもしょうがない。異動が決まるまでの間、全力で頑張ろうや」
事情を知る戸倉はなだめるようにいい、そのときふいに声を落とした。「ところで、ここだけの話だけどな、君の力を発揮するいい機会に恵まれそうだぞ」
「機会、というのは……」
意外な話に呑みかけたビールのジョッキをカウンターに戻して、秋都はきいた。
「これで頼むぞ」
戸倉は、口の前で人さし指を一本立てた。「まだ表沙汰になっていないんだが、ヤエスパワーに買収話が持ち上がっている。M&Aだ」
他に聞かれる心配がない状況だったので、戸倉は取引先の名前を口にした。一段と声を潜めて。
「どこがヤエスさんを」
思わず瞠目した秋都に、
「芝電」とぽつり。
芝浦電業、業界二位の大手メーカーだ。「当行はヤエスさん側のアドバイザーだ」
アドバイザーとは、M&Aにまつわる様々な手続き、評価などについて助言し、案件の成否を握るといってもいい存在である。無論、成功したときの報酬も大きい。
戸倉の説明はこうだ。
これから始まるEV(電気自動車)時代の勝敗を決するのは、一にも二にもバッテリーの性能である。次世代バッテリーに鎬を削る同業界で勝ち抜き、世界で戦うためには巨額の開発費と体力が必要になる。
業界首位の日本バッテリーと激しい開発競争とシェア争いを繰り広げてきた芝浦電業は自動車関連に強みがあったが、他分野での体制強化を図るために農機具メーカーに食い込んでいるヤエスパワー買収を画策して、現状、水面下で交渉が進められている。
「いったい、いつからこんな話が進んでいたんですか」
秋都は問うた。担当者として、ヤエスパワーには月に何度か通い、会長の前島徳一郎とも会っていたが、まったくの初耳だ。
それだけ情報統制が取れていたということにもなる。
「芝電さんから買収の話を持ちかけ、かれこれ五か月ほど前から交渉が行われていたらしいが――ここにきて交渉が難航しているようだ」
戸倉はいい、ジョッキのビールをひと口喉に流し込んだ。
「何か問題でもあるんですか」
問うた秋都に返されたのは、「なかなか決心がつかないらしい」、という極めて情緒的な答えだった。
まあ、そういうこともあるだろう。
ヤエスパワーは同族企業で、同社の過半数の株式は現会長の徳一郎を筆頭とする前島家が握っている。その株を手放すということは、先々代から続いてきた家業を手放すことと同義だ。そう簡単に決心できるとは、そもそも思えない。
「しかしよく、会長がその話に応じましたね」
徳一郎は、“創業家のボンボン”などと陰口を叩かれるほどのお人好しである。元研究者で頭脳明晰だが、ちょっと気弱。およそ経営者には向いていない─というのが、経理部長の逆川から聞かされている社内評だ。
担当者として個人的に知っている徳一郎は、育ちの良さを感じさせる好人物で、穏やかなインテリといった印象であった。
そんな徳一郎が、三代続いた家業を自分の代で売り払おうというのだから、これは秋都にしても意外であった。そんな大胆なことをする人だとは思えなかったからである。
「嫌気が差したのかもな。いろいろあったから」
戸倉は含みのある言い方で、ヤエスパワーを巡る機微をそれとなく口にしてみせた。
ヤエスパワーは、徳一郎の祖父、荘次郎が東京帝大工学部を出た後、ドイツ留学で最先端のマンガン電池の技術を持ち帰って設立したヤエス電池工業が前身だ。
キャッチフレーズは“技術のヤエス”。そのDNAは二代目の父、そして三代目となる徳一郎に引き継がれたものの、何分、技術を支えるにはカネがかかる。
同社を巡る経営環境は目まぐるしい変化を遂げ、技術開発を継続するために徳一郎が選択したのはベンチャーキャピタルなどの出資を受け入れることであった。
それが裏目に出る。
技術開発に巨額の資金を投じたものの成果が出ず、数年に亘って赤字を計上。その状況に至って徳一郎の経営方針に社内や創業家からも批判が噴出したのである。
人の好さが裏目に出た。徳一郎は社長の座を追われて会長となり、社長には投資会社が送り込んできた外資系投資銀行出身の益子英太が就任した。益子はドラスティックな経営改革を断行し、傾いていたヤエスパワーの業績を立て直して、いまに至る。
秋都がヤエスパワーの担当になったとき、すでに徳一郎は会長に祭り上げられており、かろうじて代表権はあるものの経営の中枢からは外された格好になっていた。
「ただ、最近、流れが変わってきた」
戸倉が指摘したのは、一度は徳一郎の経営方針に反対した創業家が、今度は益子の経営に口出しを始めたことだ。
赤字には反対したものの、“技術のヤエス”から“営業のヤエス”へ転換を図ろうとする益子の経営方針には首肯しかねる、というのが創業家の総意らしい。それを踏まえ、徳一郎も役員会などの席で経営方針に注文を付けてはみるものの、社長以下、役員たちにものの見事に無視されてきたというのが現実だ。
「創業家対経営陣、ですか」
秋都は呟くようにいった。よくある構図、といえばそうかも知れない。
ヤエスパワーに限らず、株を握る創業一族と経営が分離している会社ではまま起きることだろう。
「挙げ句、会社を売ろうとはしたものの、売る段になって迷いが出たってことじゃないかなあ」
いつも人の好い笑みを浮かべた徳一郎の顔を、秋都は頭に思い起こした。それならわかる。いかにも徳一郎らしい話だ。
「先日もM&Aチームと交渉の場を持ったらしいが、そこでも結論は持ち越しになったそうだ。ただ、その場で前島会長から、是非、君とも相談したいという話が出た」
「私と?」
思いがけない話に、秋都は目を見開いた。「なんで、私なんでしょうか」
正直、それほど親しいというわけでもない。厚い信任があるとも思えないのに。
「それは会長にきいてくれ」
戸倉はいって、ジョッキのビールをひと口流し込む。「そんなわけで、M&Aチームから、ウチに内々の情報がもたらされた。ついては君に話を聞いてきてもらいたいという要請付きでな。やってくれるか」
「それは、まあ……」
無論断る理由はないが、釈然としないままだ。
「勝負どころだ」
重々しく戸倉はいった。「もし、会長の迷いを吹っ切ってその気にさせたら、君はこの案件にとって功労者だ。日本橋でのラストチャンスになるかもしれん」
――ラストチャンス。
その言葉は、秋都の胸を深く射た。
日本橋支店に、M&Aアドバイザリー部の次長、山吹豪が訪ねてきたのは、その週明けのことである。
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