人体の構造は、美しくてよくできている――。外科医けいゆうとして、ブログ累計1300万PV超、X(旧Twitter)(外科医けいゆう)アカウント10万人超のフォロワーを持つ著者が、人体の知識、医学の偉人の物語、ウイルスや細菌の発見やワクチン開発のエピソード、現代医療にまつわる意外な常識などを紹介し、人体の面白さ、医学の奥深さを伝える『すばらしい人体』。坂井建雄氏(解剖学者、順天堂大学教授)から「まだまだ人体は謎だらけである。本書は、人体と医学についてのさまざまな知見について、魅力的な話題を提供しながら読者を奥深い世界へと導く」と絶賛されている。著者で現役外科医の山本健人氏は、どうやってこれほど多くの読者を惹きつけたのか。その秘密を、『私たちは意外に近いうちに老いなくなる』の著者でオートファジー研究の第一人者・吉森保氏が聞いた。
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研究者が嫉妬した「おならとうんこ」
吉森保(以下、吉森):先生の『すばらしい人体』、私も読みましたが「とてつもない肛門の機能」という章がありますよね。あれ、タイトルを見た瞬間、嫉妬しました。
山本健人(以下、山本):えっ、なぜですか。
吉森:私たち研究者は「いかに正確に伝えるか」ばかり考えてしまう傾向にあるからです。でも先生は、まず「いかに手に取らせるか」から設計している。しかもそれが20万部超えです。
硬派な科学書でこの数字は、ちょっと普通じゃありません。どうすればこれほど多くの人の心を掴めるのですか。
山本:掴めていると言っていいのか分かりませんが、テーマの選び方にはかなりこだわっていて、それが大きかったかもしれません。
吉森:どんなこだわりですか。
山本:たとえば、「おならとうんこの見分け方」って、誰しもが「あっ、確かにどうやってるんだろう」と思うネタじゃないですか。入口は身近で、ちょっとおバカで、思わず笑ってしまう。
でも読み進めると、その背後に直腸の感覚受容体や肛門括約筋の精緻な制御といった、深淵な科学がある。この「身近な入口から深い科学へ」という構造を、全ての章で意識しています。
吉森:読者は笑いながら入ってきて、気づいたら科学の奥深さに触れている。見事な設計ですね。
啓発を捨てて「面白さ」に全振りした理由
吉森:しかし、最初からそういう方針だったのですか。
山本:いえ、実はこの本に至るまでには大きな方針転換がありました。以前は「正しい病院のかかり方」のような啓発・啓蒙を目的とした本を書いていました。
「医療情報の格差を埋めたい」「ネットの誤った情報に惑わされる患者さんを救わなければいけない」という焦燥感があったからです。
吉森:使命感から書かれていたわけですね。
吉森 保(よしもり・たもつ)1996年オートファジー研究のパイオニア大隅良典博士(2016年ノーベル生理学・医学賞受賞)が国立基礎生物学研究所にラボを立ち上げたときに助教授として参加。大阪大学大学院医学系研究科および生命機能研究科教授などを経て、大阪大学名誉教授、同医学系研究科特任教授。著書に『私たちは意外に近いうちに老いなくなる』『LIFE SCIENCE(ライフサイエンス) 長生きせざるをえない時代の生命科学講義』(以上、日経BP)、『生命を守るしくみ オートファジー ──老化、寿命、病気を左右する精巧なメカニズム』(講談社ブルーバックス)がある。
山本:はい。ただ、啓発を目的にすると手に取ってくれるのは、健康意識の高い層に限られてしまいました。その人たちは私の本を読む前からすでに医療に関心がある人たちなので、本当に届けたい人には届かない。
そのジレンマに気づいたのが転機でした。
吉森:それで方針を変えた。
山本:そうです。『すばらしい人体』では、啓発の色を一切消しました。読者に「こういうことに気をつけましょう」と行動変容を促すのではなく、とにかく「人体ってこんなに面白いんだ!」という知的好奇心を満たすことだけにフォーカスしました。
吉森:ハウツーでも教訓でもなく、純粋な「驚き」を提供したわけですね。
山本:まさにそうです。ただ、原稿を書き始めると、つい医者としての「注意喚起」を盛り込みたくなってしまいまして。「ここで一言、読者の方にお伝えしておくと……」と説明したくなる。
吉森:分かります。研究者も同じで、つい「正確を期して付け加えると……」とやりたくなりますから。
山本:そこは編集者に「先生、ここ、説教くさいです」と徹底的に削ってもらいました。
吉森:読者に「もっと知りたい」と思わせることこそがサイエンス・コミュニケーション――科学を一般の人に伝える営みの真髄ですよね。先生の本は、その手本のような存在だと思います。
日本に不足している「サイエンス・コミュニケーター」という存在
吉森:山本先生の活動を見ていて痛感するのは、日本には「プロのサイエンス・コミュニケーター」――つまり、科学の最前線の知見を一般の人に分かりやすく伝える専門家が、圧倒的に不足している現状です。
私のような研究者は、どうしても「一般の人が何を知らないか」が分からなくなってしまいます。長年その世界に浸っていると、専門用語が「普通の言葉」に感じてしまう。
山本:それはよく分かります。私も専門の論文ばかり読んでいると、患者さんに説明するときに「あ、この言葉は分かりにくいんだ」と気づかされることがあります。
そして今、状況はさらに複雑になっています。インターネットで誰でも医療情報にアクセスできるようになった結果、情報を適切に判断できる人とそうでない人の格差は以前よりも広がっている印象です。
山本健人(やまもと・たけひと)医師・医学博士
2010年京都大学医学部卒業。運営する医療情報サイト「外科医の視点」は累計1300万超のPVを記録。SNSでも積極的に情報発信し、Xフォロワー数は10万人超。20万部突破のベストセラー『すばらしい人体 あなたの体をめぐる知的冒険』(ダイヤモンド社)ほか著書多数。外科専門医、消化器病専門医、消化器外科専門医、内視鏡外科技術認定医、ロボット支援手術認定プロクター、感染症専門医、がん治療認定医など。
吉森:情報量だけは爆発的に増えましたからね。
山本:ええ。最近では、自分の症状をChatGPTに相談してから病院に来る患者さんも珍しくありません。
「AIに聞いたら、こう言われました」と教えてくれる方もいらっしゃるのですが、その情報が正しいこともあれば、とんでもなく間違っていることもあります。
吉森:それは大変ですね。だからこそ、山本先生のように「科学者としてのロジック」――つまり、根拠に基づいて考え、判断する力を持ちながら、それを一般の方にも分かる言葉で表現できる医師は、極めて貴重です。
先生の本を読んだ方は、知識そのものだけでなく、科学的なものの考え方も自然と身に付けられます。そうなれば、溢れる情報の中から正しいものを選び取り、医学の限界も含めて冷静に理解できる「自律した患者」になれるはずですから。
山本:どこまでを自力で判断し、どこからを医療に頼るのか、その線引きが適切であるほど医療を上手に利用できる、すなわち「自律した患者」になれるのだと思います。
科学は「文化」であり、人類共通の財産である
吉森:しかし、多忙な外科医として日々メスを握りながら、これだけの執筆活動を続けるのは、並大抵の動機ではできないはずです。正直なところ、何が先生を突き動かしているんですか。
山本:突き動かしているというほど格好いいものではないかもしれませんが……。外科医は、何時間もかけて一人の患者さんを救う仕事です。その一人の命は尊く、それこそが外科医としての仕事のやりがいでもあるですが、一方で、病院の外に飛び出して情報を発信することで、何万、何十万という人の健康に貢献したいという思いもありました。
吉森:手術室の「一対一」と、本やメディアを通じた「一対多」ですか。
山本:はい、その両輪を回すことが、自分の中での使命感になっています。どちらか一方では足りない。両方あってこそ、自分が医師になった意味があると思っています。
吉森:素晴らしいですね。私は常々思っているのですが、科学は「文化」であるべきなんですね。
山本:「文化」ですか。
吉森:芸術やスポーツと同じです。すぐに役に立たなくてもいい。人間が持つ「なぜだろう? 知りたい」という知的好奇心を満たすための財産のひとつです。
そして、科学が文化として存続するためには、一般の人々の支持が不可欠です。「こんな研究、何の役に立つの?」と思われてしまったら、科学なんていつでも切り捨てられてしまう。とても脆いものですよ。
山本:だからこそ、伝え続けなければならないわけですね。
吉森:そのとおりです。伝えることをやめた瞬間に、科学は社会から孤立してしまいます。
「推し」の技術が切り拓く、新しい生命の形
吉森:最後に、山本先生の今の「推し」を聞かせてください。最新の医学の中で、最もワクワクするものは何ですか?
山本:「推し」ですか。科学的な視点でお答えするなら、やはり「免疫チェックポイント阻害薬」ですね。
吉森:おお、来ましたね。最近の医学で最もインパクトの大きいテーマの一つですよね。
一般の方のために簡単に説明していただけますか。
山本:はい。私たちの体には「免疫」という、病気やがんと戦う仕組みが備わっています。ところが、がん細胞は非常にずる賢くて、免疫にブレーキをかけてしまいます。
「私は敵じゃないですよ」と免疫を騙して、攻撃を逃れます。免疫チェックポイント阻害薬は、このブレーキを外して、免疫が再びがんを攻撃できるようにする薬です。
吉森:免疫の「足かせ」を外してやるわけですね。
山本:そうです。大腸がんではまだ適用できる患者さんは数パーセントに限られるのですが、それでも「薬でがんが消える」という、かつては信じられなかった光景を目の当たりにしています。
免疫チェックポイント阻害薬のみならず、がんの薬物療法は急速に進歩しました。
私が医学生だった頃、ステージ4――つまり最も進行した大腸がんの生存期間は1年にも満たなかったのですが今は3年、4年と生きられる方が出てきています。この日進月歩の進歩こそが、私の「推し」です。
吉森:ステージ4で3から4年。山本先生が医学生だった頃には考えられなかった世界ですよね。
しかも面白いのは、この薬のもとになったのが、1992年に本庶佑先生の研究室で見つかった「PD-1」というタンパク質ですが、発見した当時は何の役に立つかまったく分からなかった。
免疫細胞の表面にくっついている謎の分子が見つかったというだけで、がんの治療に使えるなんて誰も想像していませんでした。
そこから地道に機能を調べていって、実際に薬として患者さんに届くまでに20年以上かかっています。基礎研究の小さな「これは何だろう?」が、何十年か経って臨床の現場で世界を変える。これこそが科学のロマンだと思います。
山本:先生のオートファジー研究も、まさにそうですよね。
吉森:ええ、まさに同じです。オートファジーも、大隅良典先生がその仕組みの一部を酵母で解明されたのが1990年代の初めで、当時はこれが人間の健康にどう関わるかなんて、ほとんど誰も考えていなかった。
それが今、私の研究室ではオートファジーを活性化させる薬の開発――いわゆる創薬にまで進んできています。従来の薬は「この病気にはこの薬」と特定の病気を狙い撃ちするものがほとんどでした。
でも、私たちのアプローチは少し違います。細胞を新品の状態に保つオートファジーの機能を高めることで、がんだけでなく、認知症も、心臓病も、あらゆる老化に伴う不調を根本から改善できるはずだ――そういう発想です。
山本:特定の病気ではなく、「老化そのもの」に介入する。壮大ですね。
吉森:まだまだ道半ばですが、面白い時代に研究者をやっていると思います。
(本稿は、ダイヤモンド・オンラインのための書き下ろしです)





