ラジオ・テレビには、たとえば録音構成・フィルム構成のような、他のマス・コミにないすぐれた分野がある。
録音構成など、はじめは週刊誌のトップ記事をまねしてできたもののようだが、最近は逆に、週刊誌や総合雑誌が、そこからヒントを得たり、再録したりしている。聴覚を活字で再現しようというわけだ。
視聴覚マス・コミが、量的優位だけでなく、質的に活字ジャーナリズムをリードする可能性を示す一面といえよう。
大衆がマスコミに復讐する
「一億総評論家」の時代
「何でもやりまショー」ということは、また「みんながやりましょう」という側面を含んでいる。
戦後、ほんとうに大衆がマス・コミに登場する形式を確立したのは、ラジオ・テレビだともいえる。
はじめは「のど自慢」など娯楽面での聴視者参加だったが、それはしだいに、評論の分野にも進出する。発言の習慣がついてくる。また発言の機会としてマス・コミを利用することが、よい意味でも、悪い意味でも、上手になってきた。
いまや「一億総評論家」の時代である。
これは日本の民主主義の進歩、確立にとって、目には立たないがたいへんな前進であった。
だがここにも、マイナスの面がかならず同時に現れるわけで、一種のセミ・プロがマス・コミに目立つようになってきた。「素人という名」のプロであり、いわば素人淫売のようなものだ。見せかけは初々しいが、実は手練手管にたけている。
『大宅壮一 昭和史の証言「無思想人宣言」の思想』(大宅壮一著、大宅映子監修、森健解説、藤原書店)
投書欄や、聴視者参加番組や、街頭録音などの場が、こういったセミ・プロに占められるようになると、それは大衆から見はなされる。マス・コミが大衆から復しゅうされるのである。
セミ・プロ評論家は、それだけでなく、最近の評論なるものが、やたらに細分化することからも生まれてくる。
相撲評論家、プロレス評論家などまだいいほうで、カナダカップ評論家、卓球選手権評論家から味の評論家、美容体操評論家、ノイローゼ評論家、下着評論家といったわけで、番組の数だけ、だんだん評論家が生まれてくるしまつにもなる。
これも素人を評論家にしやすくする反面、評論そのものが、だんだん無意味なマンネリズムに陥るおそれがあるわけだ。







