「一億総白痴化」のレッテルが
放送界に及ぼした影響

 こういう放送番組の「唯量主義」について、私は、放送関係者とスポンサーに、注意を促す必要を感じたわけだ。放送の対象となる大衆のなかにも、質の異なった層がいろいろあり、そこには、おのずから、スポンサーにたいする信頼感という宣伝の「質」の問題がでてくるはずなのだから。

 とにかく、そういう動機から使った「一億総白痴化」であったが、それが1つのレッテルとして、ラジオ・テレビにつきまといながら、1年間という月日が経過した。

 この言葉がはやった責任は、私にはないと前にいったが、それでもこのレッテルが、放送界に客観的に及ぼした影響が、どうであったかを考えてみる必要は、私にもあるだろう。

 この言葉が、1つの逆作用、つまりマイナスの働きをした面があることは事実だ。

 その第一は、官僚が、放送法改正とか、番組調査権の復活とか、言論機関になんらかの規制措置を取ろうという動きを示すうえに、有力な暗示を与えているという点だ。

 マス・コミは無責任だから、当事者に任せておけない。と彼らは考える。するとそこから飛躍して彼らは、自分が規制せねばならないと信じこむわけだ。

白痴化のアンチテーゼで
「一億聡明化」が生まれた

 第二に放送の「教育化」という新現象が現れた。教育・教養番組を通じて「一億聡明化」を計ろうということだ。

 これもまたテレビの本性を忘れた意見だと私は思う。「教育テレビ」という看板(編集部注/1957年にテレビ朝日の前身「株式会社日本教育テレビ」が設立)は、チャンネル争奪戦のなかで、なんとか割当てを取るために、当局の考え方に便乗しようとして出てきた形跡がある。

 ところが、結局、免許は水増しされ、普通局もたくさんできたから、「教育」の看板を約束したところだけバカをみたわけだ。

 元来、教育テレビなどというのは、アメリカのように大学以下教育機関自身が財団化していて、それが放送局を持つ形をとる場合にはじめて考えられる。

 しかも本場のアメリカでさえ、私が行っているころ、すでにテレビなどによる教育の効果について疑問視する見解が有力になってきていた。