ただ、目に見える顔や身長、醸し出す雰囲気と違って、頭のよさは可視化されないため、学歴でひとまず測るしかない、というのが実情ではないでしょうか。

 このように婚活市場における現時点での結論としては、男女共に「頭がいい」ほうが選び、選ばれやすい時代となってきていると言えるのかもしれません。

 キャサリン・ロッテンバーグ著『ネオリベラル・フェミニズムの誕生』(河野真太郎訳・人文書院・2025)で指摘されている通り、女性の場合はさらに、頭がよくてエリートで、でも子育ても手を抜かずに子どもを名門校に入れて……という生き方を目指す「ネオリベラル・フェミニズム」と呼ばれる潮流もあるようです。あぁ気が抜けない。

ジブリアニメ『火垂るの墓』の
清太に対するSNSの怖さとは

「アタマワル」の定義を疑うためのフィクションとして頭に浮かんだ作品が、スタジオジブリ制作のアニメ『火垂るの墓』です。

『火垂るの墓』は、太平洋戦争末期、空襲で母と住む家を失った清太と節子の兄妹が、困窮の果てに命を落とすまでの過程を描いた物語です。

 1988年に公開された当初は、親戚宅に身を寄せるも、次第に冷たい扱いを受けるようになった兄妹の姿に同情する声が圧倒的多数だったと記憶しています。

 ところが、近年のSNSでは清太に対して、「自分でおばさんの家を出て行ったのだから自業自得」「14歳なのだから我慢できるのに、自己責任だ」「正しい状況判断ができないのは無能」といった批判的な声が目立つようになりました。

 つまり、14歳の清太に非があると主張している人々は、「清太が『正しい判断』をできていれば死ぬことは避けられたはずだ」と考えているのでしょう。

「あいつが頭が悪いから、死んだのだ」

 そう断じることの傲慢さを、果たしてどれほどの人々が自覚しているのでしょうか。同情から一転して、バッシングへ。このような観者の反応の変化も、いかにも現代的です。

 さらに恐ろしいのは、高畑勲監督がこのような変化がいずれ起きると予見していたことです。

 いつかまた時代が再逆転したら、あの未亡人(親戚の叔母さん)以上に清太を糾弾する意見が大勢を占める時代が来るかもしれず、ぼくはおそろしい気がします。
「アニメージュ」1988年5月号(徳間書店)

 終戦から80年という長い歳月がすぎたいま、まさに「時代が再逆転」しつつあるのかもしれません。

『火垂るの墓』の清太を「無能」「自業自得」とディスる人が知らない高畑勲の「恐ろしい予言」『「頭がいい」とは何か』(勅使川原真衣、祥伝社)

 戦時中という過酷な状況下での振る舞いすらも、「清太自身が判断を誤ったせいである」と問題を個人化する時代へ――。すべてを「個人の能力」の問題へと還元するこの風潮は、紛れもなく能力主義時代の産物です。