社会のあらゆることは固定的な本質を持たず、様々な作用の中で構築されてきた、と考える立場を「構築主義」という。最もわかりやすいのはジェンダーに関する議論である。そうした構築主義者に欠けている視点とは。※本稿は、中島啓勝『ておくれの現代社会論:○○と□□ロジー』(ミネルヴァ書房)の一部を抜粋・編集したものです。
エチオピアで出くわした
「おかしな」人たち
文化人類学者の松村圭一郎はその著書『うしろめたさの人類学』の中で、彼が主なフィールドにしてきたエチオピアの田舎町では、よく「おかしな」人に出くわすと書いている。彼のような外国人は目立つので、「おかしな」人にしょっちゅう絡まれるそうだ。
買い物中にこぎれいな格好をした青年がニコニコしながら英語で話しかけてきたかと思えば、何を言っているのか意味がつかめず、よく見ると笑顔もどこかゆがんでいる。松村が戸惑っていると、通りすがりの人が青年の手を引いて「おいで」と連れていく。町の人たちは、この青年のような人たちのことをよくわかっていて、ときに笑いものにしながらも関わり合いながら暮らしているのだ。
彼が調査に入った村に住む、アブドという名の青年の話はさらに衝撃的なものだ。ぶつぶつとつぶやきながらふらっと人の家に入ってくるこの青年に、村の人たちは「元気にしてるか?」「食べていきな」などと声をかけたり食事をふるまったりしているのだが、アブドが隣村の家に火をつけて全焼させてしまうという事件が起こった時でさえも、村人たちは彼を捕まえるわけでもなく寛容な態度で接していたのだという。
数年後、その村を再訪した松村がトウモロコシの収穫作業に立ち会っていた時、働いている若者の中に見覚えのある男を見つけて彼は驚いた。「おかしな」青年だったあのアブドが、すっかり見違えた姿で自活を始めていたのだ。この村では他にも、精神的におかしくなったりまた元に戻ったりした人が何人もいて、村人たちはそのような状況を日常のこととして受け入れていたのである。
その一方で、松村は、大阪の地下鉄の駅で見かけた小柄な老婆の姿が目に焼きついていると語る。きちんと身だしなみを整えたその女性は、人並みに背を向け、小さな布の上で壁に向かってじっと正座していた。