「業績」であれば、完全に過去の実績の総体です。しかし、それに対して「能力」という言葉を使ってしまった瞬間に、架空の概念の話になる。この点には注意が必要です。業績や実績は、なんらかのデータとして残るものでしょう。しかし、「能力」なるものをこの目で見たことのある人は誰もいませんし、正確で客観的な測定や、他者と比較して順位付けできる人も、本来はいないはずです。
就職氷河期に都合がよかった
「自己責任論」
この「能力主義」が日本で最も盛り上がったのは、1990年代に入ってからだと考えられています。
そう、バブルが崩壊して、就職氷河期が到来した時期です。
国家財政の悪化が不況を招き、多くの企業が人件費削減のために新卒採用を大幅に絞ったことで、多くの若者が非正規雇用や不安定な雇用状況に追い込まれました。この時期の日本で台頭したのが高度経済成長期から脈々と続いてきた能力主義であり、新自由主義のもとで広がった自己責任論です。
2000年代以降に新自由主義的な構造改革路線を推し進めた小泉純一郎政権下において、人は能力に応じて評価・選抜されるべきだとする評価観=能力主義は、非常に相性がいい思想でした。
大勢の人を並べて、「能力」で断定・他者比較・序列化する。
それによって選ばれた少数の人だけが肯定され、より多くの報酬と地位を得る正当性を持つ。
選ばれないのは、個人の能力・努力が不足しているのだから、残念だけどまあ仕方ないよね……。もっと頭を使えばよかったのに、もっと頑張ればよかったのに……。
『「頭がいい」とは何か』(勅使川原真衣、祥伝社)
さて、このような能力主義的発想が配分原理として用いられるようになった結果、日本はどんな国になりましたか?
成功した少数の強者が国や経済を回し、弱者にはとことん冷酷に自己責任を突きつけています。なぜなら、人生に失敗しているのは、愚かで努力をしていない人間だから――。福祉の削減や排除の正当化を支えるロジックは、このような発想に由来しているのでしょう。急激な人口減少が止まらないこの国では、もはや誰かを排除している場合ではないというのに。
残念ながら、これが日本型メリトクラシーとも言うべき能力主義に社会全体が覆われ、失われた30年を経てたどり着いた日本社会の現在地です。







