土建業と政治は深い関係がある。政界に打って出てやると野心を抱きながら、田中角栄は仕事に励んだ。神楽坂にある料亭で芸者と交遊した。そのうちの1人に円弥という10代の半玉(編集部注/一人前の芸妓になるために修行中の15~20歳前後の少女)がいた。山科の叔母、辻和子である。

 円弥と田中角栄は互いに好意を寄せ合う。円弥――辻和子は田中青年がのちに内閣総理大臣になるなど夢にも思っていない。

田中角栄が羽を伸ばした
辻和子邸でのプライベート

 山科薫は叔母、辻和子をとおして生身の田中角栄を知ることになり、田中角栄研究正史とは別にリアルな素顔の証言者となる。

「田中さんはね、記者会見や国会では立て板に水のようにしゃべるけど、プライベートではむしろ聞き役でしたよ」と山科が語る。

「朝から晩まで陳情が押しかける。すべてさばくにも短い時間で相手の話を聞かなければならないでしょ。だからなのか、聞き上手でした」

 山科の父は都庁勤務だったこともあって、田中角栄は庶民の意見、反応を山科の父から得ていた。

 目白の田中御殿とは別に、神楽坂の辻和子邸では角栄は田中派の重鎮とも距離を置き、プライベートな空間で羽を伸ばした。

 のちに辻和子は女児と2人の男児を授かる。不幸にも女児は病死するが、2人の男児、京と祐は元気に育った。角栄は2人の男児に田中姓を名乗らせた。

 長男・京は成長すると父親に似てきた。角栄も期することがあったのか、目白の本妻が産んだ眞紀子とは別に政界への道を想定していたふしがあった。

 立候補して、選挙活動する際、新人なので選挙民に名前を覚えてもらう必要がある。そのために名前の入ったのぼりを何本も立てるのだが、“京”という名前は表からも裏からも同じ左右対称の一文字だから、覚えやすく、書きやすい。選挙対策をすでに頭の片隅に描いていたようだ。

 下の弟・祐は山科薫と同い年、昭和32年生まれで、幼いころから従兄弟同士、仲がよく、神楽坂の邸宅でよく遊んだ。高校も山科同様、早稲田実業に進んだ。

 幼いころから能弁で、父親の雄弁ぶりは次男の祐が継いだといわれた。

 山科からそのころの辻邸の庭の写真を見せてもらった。庭というよりも高校のグラウンドのような広さであり、人工的に造られた山や川は、これぞ築山といった風情だった。昭和30年代にしては珍しいカラー写真、というのも辻家の財力の証だった。