神田に「来来軒」の企業化、チェーン化のヒントを与えたのは、すかいらーく(創業時はスカイラーク)創業者の横川4兄弟(横川端、茅野亮、横川竟、横川紀夫)であった。

 1970年(昭和45年)7月に郊外型ファミリーレストランの先駆けとして国立店を開店したのだが、その当時、土地の取得はメドが立っていたものの、建物を建てるにはまだ3000万円ほど足りなかった。

 そこで、横川4兄弟は1人1億円の生命保険に入って追加担保とし、田無農協(現・東京みらい農業協同組合)からの融資が決まった。

 そして1号店から大ヒット、多店舗化に乗り出して、経営は軌道に乗った。

 神田はこの横川4兄弟の創業物語を引き合いに出しては、兄弟3人の結束を説き「協力して店を増やしていこう」と説得したのである。

お金儲けよりも
純粋な情熱が兄弟を動かした

 神田にとっての問題は、兄弟3人が協力して「来来軒」をどう発展させていくかであった。

「実はこの頃、3兄弟の間で考え方はバラバラだったのです。義弟の高橋は故郷の茨城に帰って『居酒屋でもやる』といい、ロードサイドに土地を買って準備していました。また、実弟の功は3店舗目の蕨西口店を出した後、『これ以上店を増やす必要はない』と反対していたのです。実弟の功はのれん分けしてもらって、独立しようと考えていました。

 私はそんな2人に対して3人で力を合わせてやれば10店舗、さらに20店舗以上店ができ、豊かになれると説得しました。

 しかし、弟2人は、暇な時間ができると、すぐに耳に挟んだ赤鉛筆で競輪専門紙を見ながら、趣味の競輪の予想に夢中になってしまう私のことを信用できず、乗り気ではなかったのです。『兄貴にいいように利用される』と疑っていたようです。確かに、その時は女房が経理を見ていて、全部をオープン化していなかったので、2人の弟が疑いの目を向けるのは仕方なかったと思います」(神田)

 神田はこう続ける。

「それで店が終わった後などに、3人で大宮南銀座店に集まって、何度も話し合いましたが、弟たちは『店を出すお金はどうするのか』、『人をどうやって集めるのか』と痛いところを突いてきました。その時の私は資金は個人保証で銀行から借りるより仕方ないと思っていましたし、毎月の経理状況は銀行に提出していました。

 問題は人集めでしたが、『なんとかする』と請け負ったのです。そして私は3つのことを弟2人に約束しました。

『日高屋 10人中6人に美味しいといわれたい』書影日高屋 10人中6人に美味しいといわれたい』(神田 正、日本実業出版社)

(1)経理のオープン化
(2)私の給料のオープン化
(3)大宮から赤羽までの京浜東北線の各駅に「来来軒」を開店して提灯でつなげる

 ということです。

 私には自分の私腹を肥やすとか、私利私欲をむさぼるといった気持ちはなかった。ただただ、店を増やし、店を大きくしたいという一心でした。

 最後は私の情熱、そして私の夢が通じたんだと思います。実弟も義弟も『わかった。協力する』といってくれたのです。この時初めて、『来来軒』から『日高屋』につながる会社組織の基礎が固まったのです。

 その後もまた、考え方の相違が生じると、泣きながら喧嘩するような時もありましたが、この弟2人だけは、何をいっても決して辞めないだろうと確信していました。実弟、義弟の2人がいてくれたから、いろいろなことがありましたが、なんとかやって来られたんです」(神田)