ハイデイ日高の神田 正会長 Photo:JIJI
いまや全国に450店舗を超える一大中華チェーンとなった「日高屋」だが、その道のりは波瀾万丈だった。創業者の神田正氏は、最初の挑戦で店の閉店に直面し、一文なしで無職になるという挫折も経験する。しかし、その失敗から得た教訓が、後の成功につながっていく。ライバル店が閉まる深夜こそ稼ぎ時――常識の逆をいく発想で繁盛店を作った、日高屋創業者の経営術とは?※本稿は、株式会社ハイデイ日高代表取締役会長の神田 正『日高屋 10人中6人に美味しいといわれたい』(日本実業出版社)の一部を抜粋・編集したものです。
戦略なく始めた来来軒は
閑古鳥が鳴く毎日
日高屋創業者の神田正は岩槻名店街の「来来軒」の店長時代、近くに借りたアパートから出勤、朝は9時前に出勤、掃除から始めて、ラーメンスープの仕込み、餃子の餡作り、昼食時間帯の用意など忙しく働いた。
ところが児玉(編集部注/来来軒オーナー)は、神田に任せっきりだった。店ではレジを担当した。営業時間は朝10時から夜の10時だった。
「児玉さんはお金もなく、借金で始めたラーメン事業でした。家賃などは約束手形で落としていました。店はフリー客が入るわけではなく、地元の人たちがターゲットだったのですが、大宮の繁華街などと比べると、人の流れがほとんどありませんでした。
私は近くに岩槻市役所(現・さいたま市岩槻区役所)があったので出前の注文を取りに行くとか、電話を導入したり、告知して注文が入るようにすべきだと進言しました。
けれども児玉さんは電話を引く気はなかった。本来は、児玉さんが市役所に行って注文を取ってきて、出前でもするべきだったのですが、児玉さんにはそれができなかったです。
私が注文取りから出前までやればよかったのかもしれませんが、それだと店にお客様が来店された時に困ります。
結局、私は毎日来店するお客さんを待つだけ。暇な日が続きました。ラーメンのスープや餃子も売れ残り、ホールを手伝いに来ている児玉さんや奥さんなどと、賄い飯にして食べていました。
商店街の人や、大家さんなど、関係者はたまに来店してくれましたが、それ以外は、お昼時や夜の早い時間帯に、パラパラとお客さんの来店があるだけでした。結局毎月、赤字の垂れ流しでした」(神田)







