孤立する有岡城
有岡城に籠城した荒木村重は、毛利氏との連携に期待していました。しかし状況は、彼の思うように進みませんでした。
毛利軍は上月城を奪取したものの、それ以上大きく進軍してきません。一方で、高山右近や中川清秀など有力な同盟者たちは次々と織田方へ寝返ってしまい、有岡城は完全に孤立してしまったのです。
とはいえ有岡城は、村重が整備した堅固な城です。当時の有岡城は、現在のJR伊丹駅から阪急伊丹駅まで広がる大規模な惣構えの城郭であり、力攻めで攻略することは容易ではありませんでした。
一度は短期決戦の力攻めを仕掛けた信長も、有岡城の堅牢さの前に敗れ、戦略を兵糧攻めによる長期戦へと切り替えます。
城主自ら、謎の脱出
有岡城は、1年以上にわたって抵抗を続けました。
ところが天正7年(1579)9月、驚くべき出来事が起こります。城主である村重自身が、わずかな供回りだけを連れて城を脱出し、尼崎城へ逃れたのです。
村重はなぜ脱出したのでしょうか。その理由には、兵糧補給路を確保するためだったという説や、毛利氏に直接援軍を要請するためだったという説など諸説ありますが、どれも確かな史料はなく、真相は現在も謎のままです。
城主を失った有岡城は、同年11月に開城しました。しかし悲劇はここから始まるのです。
一族・家臣が600人以上犠牲になった悲劇
降伏した家臣たちは、自らの妻子を人質として城内に残すことで信長の許しを得て、尼崎城にいる村重へ降伏を勧めに出かけて行きました。
しかし村重は、これを拒否します。
その結果、人質となっていた一族や家臣の家族ら600人以上が、処刑されることになりました。
『信長公記』によれば、村重の妻・だしをはじめとする近しい者たちは特別に京に送られ、六条河原で処刑されたといいます。妻女たちは最後まで取り乱すことなく、首切り役人に静かに己が首を差し出しました。また、14歳だった荒木久左衛門の子・自念も落ち着き払って最期を迎えたため、見物人たちからは感嘆の声が上がったと記録されています。
妻・だし(左:山谷花純)と荒木村重(右) (C)NHK
これは戦国史のなかでも屈指の悲劇として知られる出来事です。







