【大人の教養】オランダ東インド会社も狙った「北西航路」…なぜいま世界の火種になるのか?
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
本連載では、海峡・山脈・河川などの地形を手がかりに、世界史を読み直していく。著者は代々木ゼミナールの世界史講師で、「地図の鬼」と呼ばれる伊藤敏氏。オリジナル地図を通じて、ホルムズ海峡やシルクロードなどの歴史的背景を立体的に理解でき、歴史と地理を同時に味わうことができる。本稿は、伊藤氏の近刊『地図で学ぶ「深読み」世界史』を一部抜粋したものだ。
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オランダ東インド会社も狙った「北西航路」…なぜいま世界の火種に?
本日は北西航路についてお話しします。
北西航路とは、北米大陸の北側、カナダやアラスカの北の北極海域を通って大西洋と太平洋を結ぶ航路のことです。従来、大西洋と太平洋をつなぐ航路には、南米南端のマゼラン海峡や中米のパナマ運河が使われてきましたが、距離や混雑、船舶の大きさの制限などの課題がありました。一方、北西航路はパナマ運河経由より距離が短いものの、北極海が氷に覆われているため、大型船を含む実用的な航行は困難と考えられてきました。しかし2010年代以降、北極海域への関心が高まり、北西航路の実用化が現実味を帯びるとともに、新たな国際問題の火種としても注目されるようになります。
北西航路の探索は16世紀、大航海時代に始まりました。先行したポルトガルは喜望峰経由でインド航路を開き、香料貿易を独占し、スペインはコロンブスの航海を機に新大陸へ進出しました。両国はデマルカシオンによって世界進出の分界線まで定め、ポルトガルは東回り、スペインは西回りのアジア航路を確保します。そのため、香辛料や茶、絹織物、陶磁器など魅力的なアジア商品を求めるイングランドやフランスなど後発のヨーロッパ諸国は、両国に対抗するため、新たな航路として北西航路を探し求めることになったのです。
カボット父子と北方航路構想
こうしたイベリア両国の進出にやや遅れて、イングランドやフランスといった諸国も大洋に漕ぎ出します。イングランド王ヘンリ7世(位1485~1509)は、イタリア人航海士ジョン・カボット(ジョヴァンニ・カボート)の航海事業を支援し、コロンブスの最初の西方航海の5年後(1497)に現在のカナダ東岸を視認します。
このときカボットが「発見」(北米大陸の先住民は存在を認識していたであろうし、1000年頃にヴァイキングの一派がこの島にすでに到達)した島はラテン語で「テッラ・ノウァTerra Nova(「新たな地」の意)」と呼
ばれ、この島は現在ではニューファンドランド島Newfoundlandと称されます。
また、イギリスでは1553年に「新天地への商人冒険団会社Company of Merchant Adventurers to New Lands」が発足し、これはまもなく特権会社として国王エドワード6世に認められることになり、その設立者のひとりはセバスティアン・カボット(セバスティアーノ・カボート/ジョン・カボットの息子で同じく航海士)でし
た。「新天地への商人冒険団会社」は、1555年にはモスクワ会社 Muscovy Companyと改められ、当時東ヨーロッパに勃興しつつあったモスコヴィア(ロシア・ツァーリ国)のイヴァン4世(雷帝・位1533~74、76~84)と結びつき、イングランドの対モスコヴィア貿易を独占します。下図を見てください(図34)。
出典:地図で学ぶ「深読み」世界史
同時に、モスクワ会社はモスコヴィア(およびロシア)北部を経由してアジアへ至る、北東航路Northeast Passageの発見を目的としていました。このモスクワ会社に雇用された航海士に、ヘンリ・ハドソン(1565頃~1611頃)がいます。
ハドソンは北東航路を求めてモスコヴィアの北、北極海域を航海しましたが氷河に阻まれて失敗し、次いでオランダ東インド会社に雇用されたハドソンが今度は北西航路の発見を試みます。結局この試みも失敗に終わりますが、現在のアメリカ・カナダにおけるハドソン川やハドソン湾といった地名は、いずれもヘンリ・ハドソンに由来するものです。
(本原稿は『地図で学ぶ「深読み」世界史』を一部抜粋したものです)









