水谷豊氏と寺脇康文氏 Photo:SANKEI
かつて刑事ドラマといえば、派手なアクションか人情ドラマが定番だった。そんな常識を覆したのが『相棒』である。銃撃戦もカーチェイスもなく、主人公は慇懃無礼な変人刑事。そんな斬新すぎる設定にもかかわらず、国民的ドラマへと成長したのはなぜか。監督の抜擢理由から杉下右京の誕生秘話まで、『相棒』創成期の舞台裏を追う。※本稿は、社会学者の太田省一『「相棒」大全 25周年を迎えた傑作刑事ドラマ大研究』(星海社新書)の一部を抜粋・編集したものです。
水谷豊が監督に選んだのは
ピンク映画出身の和泉聖治
出来上がった初回の脚本を読んだとき、水谷は興奮した。「刑事物としてこんな本があるのかと驚いたし、とにかく面白かった」(水谷豊/松田美智子『水谷豊自伝』、164頁)。
この輿水泰弘による脚本を映像化するにあたって、水谷豊は監督の人選にもこだわった。メインの演出として白羽の矢を立てたのが、和泉聖治である(編集部注/和泉聖治は監督を務める傍ら演出も担当)。
和泉は、ピンク映画の監督として多くの作品を演出した後、『オン・ザ・ロード』(1982年公開)で一般映画デビュー。『沙耶のいる透視図』(1986年公開)は、右京の元妻・たまき役で出演した高樹沙耶のデビュー作だった。松本基弘(編集部注/『相棒』チーフプロデューサー)も、『南へ走れ、海の道を!』(1986年公開)という映画に感銘を受けていたので異存はなかった(『オフィシャルガイドブック 相棒』、128頁)。
また和泉は、映画のみならずVシネマやテレビドラマなどアクションものやヤクザものの演出を多く手掛けていた。そんな和泉と水谷豊は、『遮断機の下りる時』(フジテレビ系、1989年放送)というドラマで一緒になった。







