しかし、ニクソン・ショックの当時、そのような勘違いをしなかった日本人でも、「これで日本は豊かになる」と考えた者はほとんどいなかった。多くの人びとは、60年代、輸出主導で急成長をとげてきた日本経済が急激な円高で息の根が止められると狼狽した。日本政府は円高対策に大型の72年度予算を編成し、日銀も円高阻止のために大規模なドル買い・円売りの介入を行った。

 しかし、非常に早い段階で円高を積極的に受け止めた日本人が1人いた。ニクソン・ショックの日から数えて5日目の8月20日、那須の御用邸に内奏に訪れた水田三喜男蔵相に向かって、昭和天皇は、

《「円の切り上げをすることは、円が強くなったことであり、つまりは日本の国がよくなったことだと考えるわけにはいかないか」》

 と問いかけたといわれている(佐上武弘「天皇陛下と円の切上げ」『週刊東洋経済』1982年10月16日号)。

「円高で豊かになる」は
なかなか実感しづらい

 さて、二度目の急激な円高局面は、85年9月のプラザ合意であった。円/ドルレートは、合意後の1年間で230円台から150円台へと著しく切り上がった。

 プラザ合意の際も、急速な円高が輸出企業に与える深刻な影響が懸念された。当時、住友信託銀行の調査部でマクロ経済調査を担当していた私も、産業連関表を用いながら急激な円高で輸出企業全体の収益がどの程度減収するのかを計算していた。

 正直なところ、当時の計算の細かな想定は覚えていない。しかし、円高の輸出へのデメリットは輸出企業に集中する一方、円高の輸入へのメリットは輸入企業を含めマクロ経済全般に及ぶので、輸出企業の収益激減は計算をする前からわかりきっていた。私の調査レポートは、円高による世間の狼狽を代弁したにすぎなかった。

 ニクソン・ショックでも、プラザ合意でも、「円高で豊かに」は、多くの日本人にとって実感しにくかった。その最大の理由は、円高の輸出企業へのダメージがあまりに甚大だったからである。その裏側では、円高の輸入全般への大きな恩恵が、ほとんど考慮されていなかった。