なぜ藤原京は16年しか使われなかったのか

 藤原京は、「新益都」と呼ばれる。それは王宮を中心とした古い都市に代わる、内裏を中心とするそれまでにない新しい中国風の都城であった。

 天武天皇は古い形の王宮である飛鳥浄御原宮でさまざまな政治改革をすすめるなかで、その宮の北西に隣接する地に中国風の広大な都城を開発しようとしたのだ。

「新益都」の建設計画はいったん中断されるが、天武11年(682)に再開された。そして天武天皇の没後に藤原京の建設は再び中断するが(686年)持統四年の持統天皇の即位式のあと都城の建設が再開された(690年)。この間、3年間の空位がある。

 その年に、藤原京の核となる藤原宮の選定がなされた。そしてそのとき、藤原宮が藤原京の中央に置かれることが決められた。

 持統天皇の主導のもとに、藤原京の建設が急速に進められた。持統5年に、京内の宅地が貴族や役人に分け与えられた。そしてその3年後に藤原遷都がなされた。

 このあと藤原京は、持統天皇、文武天皇、元明天皇の三代の天皇の都となった。しかしその都が用いられたのは、わずか16年に過ぎなかった。

 元明天皇が和銅3年(710)に、奈良盆地の北方の平城京へ遷都したためである。なぜ広大な藤原京は、短命な都となったのであろうか。

 じつは遷都の時点で、藤原宮も、その周囲の藤原京も完全なものになってはいなかった。そのため新しい都城の建設工事は藤原遷都の後も長期にわたって継続されることになっていたのである。そういった中で、藤原京のもつ欠陥が明らかにされる事態が起こった。大宝元年(701)の元日に、盛大な朝賀の儀式が行なわれた。そしてそれからまもない1月23日に、30数年ぶりとなる遣唐使が任命された。

 この年の3月から『大宝律令』が部分的に施行されていった。そして701年8月に『大宝律令』の撰定が完成した。