未完成の藤原京から平城京へ

 律令の撰定の中心人物の一人であった粟田真人は、遣唐使の執節使として中国の唐朝に律令の完成を報告し、新たな「日本」の国号を承諾してもらう任務を命じられていた。粟田真人が率いた遣唐使は、702年に唐にむけて出航した。

 粟田真人は、翌703年に唐長安城の大明宮でひらかれた朝賀の儀式に呼ばれた。そしてそこで高さ15メートルの基壇の上にそびえ立つ含元殿に出御した皇帝の姿を、はるか下から仰ぎ見た。

 このときかれは藤原宮の大極殿では、天皇に中国の皇帝なみの威厳をもたせるのに不十分だと感じた。粟田真人は、天皇を超越的な存在とするためには、藤原宮のものに代わる新たな内裏や大極殿をつくらねばならないと決意した。

 しかも唐の大明宮は、長安城の北側の中央におかれている。この位置に内裏を置くと、効率の良い都市計画ができる。

 粟田真人は唐の宮廷で、「礼儀に通じた優れた人物」だと評価された。そして「日本」への国号の変更も、すんなり認められた。そのような粟田真人の一行が慶雲元年(704年)に帰国して長安城のあり方を報告すると、朝廷に大きな衝撃が広がった。

「天皇を中国皇帝なみの君主にするには、藤原京では不十分だ」

 というのである。そのため遣唐使の帰国の約40日後に、藤原京の造営工事が中止された。そして慶雲4年に、天皇は五位以上の貴族を集めて遷都のための会議をひらいた。

 この次の年(707年)に元明天皇が即位した。そして和銅元年(708年)に元明天皇の「遷都の詔(みことのり)」が出された。そしてその翌々年に、平城遷都が行なわれた。