書店を歩けば必ず見かける――。数々の話題書で装画や本文イラストを手がけるイラストレーターのヤギワタル氏をご存じだろうか。親しみのある絵柄で人気を博す彼は、どのようなキャリアで「食えるイラストレーター」になったのか。初の著書『言語化だけじゃ伝わんない――絵を描くように「考える・伝える」技術』を書き下ろし、ますます注目度の高まるヤギ氏。その全てを語るインタビュー記事。全5回のうち第1回目をお送りする。(取材・構成/ダイヤモンド社・種岡 健)

【食えるイラストレーターになる方法】何者でもなかった自分が「イラストレーター」の道を歩むことになる原体験

高校時代の暗転、そして「本」という逃げ場所

――イラストレーターのヤギワタルさんといえば、数々の話題書やビジネス書の装画、本文イラストを手がけ、親しみのある絵柄で人気を博しています。今回はそのキャリアについてお聞きしたいと思っています。最初からイラストレーターを目指していたわけではなかったんですよね?

ヤギワタル(以下、ヤギ):そうですね。本当に、ぼくの人生は「自分には何もない」「仕事ができない」というコンプレックスから始まっていて、そこから向いていないものを一つずつ削ぎ落としていったキャリアなんです。

 20代の頃はライター、カメラマン、お笑い芸人、翻訳会社……と、いわゆる「何者か」になりたくて、でもなれなくて、ずっと自分に何が向いているかを模索しながら生きてきました。

――その最初の時期、大学時代から、今回はじっくりお伺いしたいと思います。そもそも、ヤギさんは子どもの頃から絵を描くのが好きだったんですか?

ヤギ:静岡で育った子ども時代は、本当に漫画ばかり読んでいる、ごく普通の子でした。1981年生まれなので、まさに鳥山明さんの『ドラゴンボール』直撃世代です。

 ぼくらの世代でイラストレーターになった人って、多かれ少なかれ鳥山さんの絵に強烈な影響を受けている人が多いんですよ。ぼく自身、3等身や4等身のキャラクターを描くとき、その根底には鳥山さんの影響があるなと今でも思います。高校生くらいになると『スラムダンク』が流行って、等身の高いリアルな絵を模写したりしていました。

 ただ、同じキャラクターを毎回描き続けたり、ストーリーを考えたりするのが面倒くさくて、「漫画家になりたい」とは思いつつも、すぐに諦めてしまいました。当時はまだ「イラストレーション」なんて言葉すら知らず、絵と言えば漫画かアニメしかないと思っていましたね。

――その頃は、他に何が好きでしたか?

ヤギ:「お笑い」ですね。中学時代は本当に楽しかったんです。学校で面白いことを言って、周りがそれにテンポよく突っ込んでくれる。ボケて、ツッコミが返ってくるというラリーがあるだけで、日々が満喫できていました。

 ところが、高校のころにその世界が一気に変わったんです。なぜか、クラスではボケとツッコミというラリーが生まれにくかったんです。部活はバスケ部でしたが、ふざけるのが好きなぼくや友人は、真面目にやっている人たちからは毛嫌いされて、1年で退部しました。

 ぼくはスポーツもできない、勉強もできない、クラスにいてもつまらない。強い疎外感に襲われました。そのとき、人生で初めて「本」を読み始めたんです。救いを求めるように、まずは新潮文庫の夏目漱石の『こころ』から読み始めて、読書メモをつけて、武者小路実篤や志賀直哉など、明治の文豪の作品を少しずつ読み進めていきました。

――鬱屈したとき、文学が寄り添ってくれたんですね。

ヤギ:最初は背伸びをしていた部分もあったと思いますが、大きかったのは、4歳上の長兄の影響で島田雅彦さんの小説に出会ったことです。

 兄は当時すでに大学に進学していて、彼から浅田彰さんなどの「ニューアカ(ニュー・アカデミズム)」や『批評空間』といった、思想や批評系のカルチャー情報が少しずつ、ぼくに流れ込んできたんです。浅田彰さんの『逃走論』を読んでかぶれてみたり、島田雅彦さんの世界観や文体に魅了されたりしました。

 島田雅彦さんが東京外国語大学のロシア語学科出身だと知って、「よし、ぼくも東京外大に行こう」と考えたほどです。特に他にやりたいこともないし、島田雅彦と同じ大学でいいや、みたいな安易な理由でした。ロシア語学科は厳しそうだったのでポーランド語学科を受験したものの、結局、落ちてしまい、中央大学に進学したのですが。

「60年代の映画」が教えてくれたこと

――上京してからの大学生活はいかがでしたか?

ヤギ:大学に入学して、まず住む場所を探したときも、島田雅彦さんの影響を引きずっていました。彼の小説によく「多摩川」が登場するんですよ。静岡から出てきたばかりで東京の地理なんて右も左もわからなかったけど、「とにかく多摩川の近くに住みたい」ということだけは決めていました。それで最初に住んだのが、川崎市の多摩区にある稲田堤でした。

 大学のキャンパスは高幡不動や多摩センターのあたりにあったので、学生はみんなそっちの近くに住んでいたんですが、多摩川が近かったのが決め手になりました。それから、ぼくはどうしても「映画が観たい」という強い思いがあったので、大学3年の時には調布に引っ越しました。

 調布なら京王線の特急が止まるから、新宿や渋谷のミニシアターにすぐアクセスできる。当時はまさにミニシアターブームの真っ当中で、映画館に通い詰めて古い映画ばかり観ていました。

――その頃に観た映画が、今のイラストレーターとしての仕事にも繋がっていると伺いました。

ヤギ:まさにそうです。高校3年生の頃、一人で渋谷のBunkamura(文化村)に行って映画を観たんです。その劇場の売店で、ピンク色の『ヌーベルバーグ40周年特集』の雑誌を見つけて、「これ、めちゃくちゃかっこいいな」と衝撃を受けました。

 ヌーベルバーグというのは、1960年代のフランス映画の潮流です。ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーたちが、スタジオを飛び出して野外で手持ちカメラを回し、それまでの映画の文法を壊していった。そして、彼らは監督であると同時に批評家でもあったんです。映画を批評的に観て撮るというのがかっこいいなと思って、大学では絶対に映画を撮るか、映画に関わる活動をしようと決意しました。

 ぼくが描くイラストって、男性がよく「スーツ」を着ているんです。なぜスーツの人ばかり描くのかというと、ぼくがその時魅了された60年代のフランス映画の中で、登場人物たちがみんなスーツを着ていたからなんです。ぼくの中での格好いい男性のデフォルトが「60年代の映画のスーツ姿」だった。

 これが面白いもので、その後、ぼくがイラストレーターとして営業を始めた2010年頃は、世の中はまだスーツ姿の人が今より多い時代でした。ぼくが古い映画のオマージュとして描いていた「スーツの男」の絵が、今の文脈に置かれるとたまたま「ビジネスパーソンのイラスト」としてビジネス書の編集者の目に留まったんです

 もしぼくが80年代の映画が好きで、ジーンズにTシャツの若者ばかりを描いていたら、今のビジネス書の装画の仕事はそんなにしていなかったかもしれません。狙ってビジネス書を攻めたわけじゃなく、ただ自分の古い映画への偏愛が、時代と重なっただけなんです。

「お笑い」の夢と、ナメた就職活動

――なるほど。その影響は面白いですね。その後、大学では映画に没頭されたんですか?

ヤギ:そこがまた人生の面白いところで、映画を撮ろうと思って入った映画研究会が、なぜか「全員お笑い好き」のサークルだったんです。何より嬉しかったのは、ぼくがボケると、的確に突っ込んでくれる人たちがいたことです。中学時代に感じていた「人を笑わせるのが楽しい!」という感覚が、一気にフラッシュバックしました。

 結局、大学時代は自分では1作しか映画を撮らず、部室でお笑いサークルのようなノリで、いかに人を笑わせるかばかりを考えて過ごしていました。

 一方で、一人の時間は高校時代からの興味で文学を読み、ミニシアターで映画を観る。今振り返ると、完全に「自分は周りの大学生とは違う、特別な存在なんだ」とこじらせていましたね。

――大学生活で印象的だったのはなんでしょうか?

ヤギ:「お笑い塾」に入ったので、その話をしておかないといけないですね。当時、雑誌『Cut』の「一人ごっつ」特集を読んでいたら、松本人志さんと仲のいい放送作家が、新しく「お笑い塾」を立ち上げるという広告を見つけたんです。ぼくは中学時代から松本さんが好きでしたから、「これはぼくも一期生として行くしかない」と興奮して応募しました。周りも同じような松本信者が集まっていましたね。

 ただ、この塾がとにかく高かった。年間で60万円。週に1回、2時間の授業で年間60万。ビジネスパーソン向けならともかく、夢見る貧乏な若者向けの塾ですからね。しかも、主催の放送作家は月に1回来るか来ないか(笑)。普段の授業は、テレビ局のディレクターや放送作家が講師をしていたのですが、なにをやるかは当日決めるという感じで、60万円払っても授業はこんなに適当なんだと驚きました。

 ただ、その塾で、その後の大きな財産になる出会いがあったんです。当時CMディレクターで、今は写真家のワタナベアニさんという方が講師をされたんです
 ワタナベアニさんは、授業が終わった後にぼくら生徒をご飯に連れて行ってくれて、長い時間、塾生たちにいろいろな話をしてくれたんです。なにか面白そうなことがありそうだと思って、後にワタナベアニさんがパーソナリティを務めていたインターネットラジオにも押しかけて行って、アシスタントをさせてもらったりしました。

 塾の割高感に衝撃を受け、大人は若者を金儲けの道具としてしか見てないという認識になっていたのですが、アニさんに出会ったことで、世の中には別の種類の大人がいると知れたのは大きかったですね。塾に行ったことで学んだことももちろんあって、結果的に、お笑い塾に行ったのはよかったと思っています。

――その後、就職活動はしなかったのですか?

ヤギ:ちょうど大学4年のときにお笑い塾に行っていたというのもありますが、就職は早々に諦めていましたね。大学の周りの優秀な友達が、氷河期(ロスジェネ世代の最後)の煽りを受けてテレビ局などの就活で全落ちしていくのを見ていました。「あんなに優秀でしっかりしている奴らが落ちるんだから、何のやる気も準備もないぼくが受かるわけがない」と。

 唯一、記念受験のように1社だけ受けたのが、トイレで有名な「TOTO」でした。なぜTOTOなのかというと、彼らが乃木坂で建築専門の「ギャラリー・間」という素晴らしいギャラリーを運営していて、併設されている建築専門の書店が大好きだったんです。「こんな面白い文化活動をしている会社なら、入ってもいいかな」という、舐めた理由でした。

 当然、何一つ企業研究もせずに行ったので、最初のグループディスカッションであっさりと落とされました。それがぼくの、人生最初で最後の就活でした。

観客で見た「冷めた目線」

――「お笑い塾」を卒業した後は、どういう活動されたのでしょうか?

ヤギ:塾の卒業生たちと団体を作って、原宿のライブハウスでお笑いライブをやったり、M-1グランプリや、ピン芸人のR-1ぐらんぷりに出場したりしていました。しかし、あるときのR-1のステージでとんでもないことがあって……。

 舞台に立って客席を見渡すと、目の前は若い女性ばかりの客席でした。そして、ネタをやりながら彼女たちの「何これ? 全然面白くないんだけど」という、冷めた目を浴びたんです。その瞬間、「あ、これは100%無理だ。自分が考えているお笑いは、この人たちには一生届かない」と、一瞬で理解してしまいました。

――何が原因だったのでしょうか?

ヤギ笑いのネタって、共通の前提知識がないと伝わないんですよね。芸人とお客さんの双方が持っている共通知識をズラすことで笑いが起こる。でも、ぼくはそのとき、若い女性たちが知っている言葉や文脈を知らなかったんです。自分が興味がある知識を前提にしたところで、ただの「意味のわからない言葉」でしかないんですよ。1ミリも刺さらない。

 ぼくはそれまで、文学を読み、60年代の映画を好んで観ていたわけです。そんな自分が持っている知識から作ったネタは、リアルな世間にとっては、あまりにも世間から「ズレすぎていた」。自分を客観視できていなかったですね。その圧倒的な現実を突きつけられて、一瞬で心が折れ、お笑いの道を完全に諦めることにしました。

――そこから、どのように「イラストレーター」につながっていくのか、かなり興味深いです。

ヤギ:お笑いという表現を失い、かといって就職もしていない。「これから一体、何をして生きていけばいいんだろう」と、完全に迷ってしまいました。

 でも、このときお笑いで学んだ「共通の前提知識があって、それをズラすことで笑いが生まれる」という思考プロセスとか、自分とはまったく文脈が異なる他者と対峙したときの経験とか、そして何より文学や映画が好きだったことは、十数年後、イラストレーターとして最大の武器になる『暗さとポップさの絶妙なバランス』につながっていくんです

 当時は、そんな未来が待っているとは夢にも思わず、ただ「自分は社会の役立たずだ」と絶望していたんですけどね。(第2回へ続く)

ヤギワタル
1981年静岡県生まれ。制作会社にて、雑誌タイアップ広告の制作進行を務めたのち、フリーランスのライターを経験。国際情勢関連の英日翻訳をやりながら、2011年からイラストレーターの活動をスタート。現在は書籍・雑誌・広告など幅広く活動中。特に、ビジネス書や新書での挿絵や図解を担当することが多く、10年以上、活躍している。
これまで、装画・イラストを担当した書籍は200冊以上。『言語化だけじゃ伝わんない –––– 絵を描くように「考える・伝える」技術』(ダイヤモンド社)が初の単著となる。