書店を歩けば必ず見かける――。数々の話題書で装画や本文イラストを手がけるイラストレーター・ヤギワタル氏をご存じだろうか。親しみのある絵柄で人気を博す彼は、どのようなキャリアで「食えるイラストレーター」になったのか。初の著書『言語化だけじゃ伝わんない――絵を描くように「考える・伝える」技術』を書き下ろし、ますます注目度の高まるヤギ氏。その全てを語るインタビュー記事。全5回のうち第2回目をお送りする。(取材・構成/ダイヤモンド社・種岡 健)

【食えるイラストレーターになる方法】夜勤で見つけた「イラストレーター」として大事な学びとは?

新卒で入った制作会社と、10ヶ月の挫折

――前回の続きですが、お笑いを完全に諦めた後、どのようにして動き出したのでしょうか?

ヤギワタル(以下、ヤギ):大学3年のときから、とある映画関連の会社でアルバイトをしていたんですが、お笑いを諦めてからは勤務日数を増やして週5で働くようになりました。ルートセールスの営業をやっていたんです。ただ、そこで一生勤めようとかは全然思えなかったので、いわゆる「クリエイティブ職」に転職しようと思ったんです。

 幸い、第二新卒で応募できる年齢ではあったので、制作会社に入社しました。2006年のことです。そこでは「制作進行」という、クライアントと社外のスタッフ(デザイナー、ライター、カメラマンなど)を繋ぐポジションでした。主に雑誌のタイアップ広告を作る仕事で、『東京カレンダー』や『日経トレンディ』など、雑誌のPRページを担当していました。

――華やかな広告業界の仕事のようにも聞こえます。

ヤギ:それが、びっくりするくらい地味な仕事でしたね。募集要項には「企画職」とあったので、お笑いが好きだったぼくは、どんな面白いことができるんだろうと思っていたんです。今でいう『水曜日のダウンタウン』みたいなユニークな企画が立てられると思っていたという。

 でも、当たり前ですが、求められている企画はその雑誌の色に合うもの、そして、クライアントの意向に合うものです。そういうことをぼくは理解していなかったので、入社した当初はショックを受けていました。それで、制作進行ってなんて地味で退屈な仕事なんだろうと思っていたんですが、あるとき、外部のデザイナーに怒られたことがあるんです。

 ぼくは、クライアントから言われたことをそのまま、丸投げでデザイナーに伝えていたんですよね。でもそのデザイナーから「もっとしっかり詰めてから連絡してきてください!」みたいなことを言われたんです。そこではじめて、制作進行はただの御用聞じゃないって気づいたんです
 間に立って、クライアントやスタッフの意向を調整する役割ですよね。クライアントの思いつきをそのままデザイナーに伝えるだけじゃダメなんだと。そのときから、クライアントに何かを言われても、自分で納得できるまで質問したり、デザインのことも想像して確認したりできるようになっていったんです。

 そこで怒られるまでは、どうしてもぼくは仕事に対して身が入っていなかったというか、舐めた態度をとっていた気がします。だから、学生時代にアルバイトをしていたときも、「アルバイト人事を検討しているので、決まるまで待機していてほしい」と、やんわりクビになったこともあります。そんな仕事ができない人間が心を入れ替えた瞬間でもあります。

 そこから仕事にも徐々に慣れ、制作進行の仕事にもやりがいを感じてきたのですが、慣れていくのと比例して、この仕事を続けていって良いのかと違和感が出てきて。やっぱり「何者か」に憧れたのかもしれません。「もう良いかな…」と思ってしまって、10ヶ月でその会社を退職してしまいました。

――10ヶ月での退職ですか。

ヤギ:ただ、この制作会社時代に得たもので、その後の人生を決定づけたものが二つあります。
 1つは、絵を描く面白さを再認識したことです。業務の中で、広告のレイアウトの「絵コンテ(設計図)」を描く機会があったんです。ぼくは絵を描くのが好きだったので、すごく真面目に、細かく描き込んでクライアントに提出していました。社内の先輩からも「このコンテも描いてもらえる?」みたいに頼まれるようになったり。
 そこで「あ、やっぱり自分は絵を描くのが楽しいんだな」という感覚を思い出しました。「Photoshop」を人生ではじめて使って、パソコンで絵が描けることに気づいたのも大きかったですね。

 もう1つは、フリーランスという生き方を知ったことです。社内には制作スタッフがいなかったので、デザインはデザイン事務所に、文章はフリーのライターさんに、写真はフリーのカメラマンさんに、すべて外注していました。発注側として彼らと関わる中で、「クライアントよりも、ものづくりをしているフリーランスの人たちのほうが話していて楽しい」と思ったんです。
 この出会いが、「いつか自分もフリーで何かやりたい」という、ぼんやりとした憧れに繋がっていきました。

家賃が払えないライター時代と
翻訳会社への「奇跡的な入社」

――制作会社を辞めた後は、どうされたんですか?

ヤギ:発注側としてフリーのライターさんたちと仕事をしていましたが、経費削減の意味もあって、200字程度のキャプションなら自分で書いていたんです。だったら800字、1600字とかも書けるだろう、という舐めた感じでフリーライターとして活動し始めました。イラストは好きだったけれど、当時はまだ趣味の落書き程度しか描いていません。お笑いも言葉の表現ですし、ブログを日常的に書いていたこともあって、「自分は文章の人間だ」という思い込みが強かったんです。

 でも、そんなに簡単に仕事がもらえるわけもなく、ライターとしての収入は月に数万円。会社員時代も給料は安かったですが、それでも家賃は払えていました。それがフリーライターになった途端、調布の安いアパートの家賃すら払えない。そんな極貧生活になってしまいました。

――それは精神的にも追い詰められますね。

ヤギ:「これはもう生きていけない、まともに働こう」と諦めて、2007年の秋に求人を探し始めました。「せっかく働くなら、少しでも英語を学べる仕事がいいな」と思って、検索して引っかかった翻訳会社に応募したんです。

 ただ、ぼくは帰国子女でもなければ、留学経験もありません。当時のTOEICのスコアは600点に満たないレベルでした。そんな人間が、まともに英語を使う仕事に就けるわけがない。実際、同じタイミングで入社した人たちは、帰国子女やTOEIC 900点超えの英語の秀才ばかりでした。

――そんな状況から、なぜ採用されたのでしょうか?

ヤギ:これも本当に「運」としか言いようがありません。筆記試験の課題の中に、海外のニュースを日本語に要約する問題があったんです。
 その日、たまたまソ連の文豪でノーベル文学賞作家の「アレクサンドル・ソルジェニーツィン」に関するニュース記事が出題されました。ぼくは島田雅彦さんの影響でロシア文学にも触れていたから、「ソルジェニーツィン」という名前を見た瞬間に、彼がどういう人物で、どういう歴史的文脈にいるのかが理解できた。
 英語力はボロボロでしたが、その知識のおかげで、ニュースの要約としてまあまあの説明を書くことができたんです。そしてちょうど会社が猛烈な人手不足だったというタイミングが重なり、ギリギリのところで採用されました。入社したあとは、周りが優秀な人ばかりで焦りましたけど。

「英語力」の差を「背景知識」でひっくり返す

――英語のプロたちに囲まれての仕事はいかがでしたか?

ヤギ:最初の頃は、本当に仕事に行くたびに「これはやばい」「早く辞めたい」と思っていました。周りの帰国子女たちは、英文を読んだ瞬間にサラサラと翻訳していくのに、ぼくは単語を辞書で調べながらでないと訳せない。スピードが圧倒的に遅いんです。
 それから、勤務には夜勤もあったんですが、夜勤中に難しい英文を読みながら、眠さと自分の英語力のなさにいつも打ちひしがれていました。

――その圧倒的な実力差を、どうやって克服していったのですか?

ヤギ:語学力の差を今から埋めるのは絶対に無理だ、と早々に悟りました。そこで、自分にしかできない「別ルートの戦い方」を考えたんです。それが「背景知識のアップデート」でした。ぼくたちの仕事は国際政治のニュースを翻訳することでした。ニュースというのは、その日の出来事だけを見ても理解できません。そこに至るまでの歴史や、複雑な人間関係の文脈がある。

 当時はイラク戦争が続いていて、ちょうどサブプライムローン問題が表面化しはじめ、世界金融危機へと向かう過渡期でした。そこでぼくは、国際政治や中東の歴史、金融経済の本を読み漁り、ニュースの「背景知識」を徹底的に勉強したんです。

 背景知識さえ完璧に頭に入っていれば、流れてくる英文が「何について言及しているのか」が瞬時に理解できる。だから、単語を調べる時間を大幅に短縮でき、なんとか英語ができる人たちと同じくらいの翻訳ができるようになりました。「英語力」ではなく、「背景の文脈を理解する力」でカバーしたんです。

映像翻訳が教えてくれた「ビジュアルが主、言葉は従」

――その翻訳会社で、ヤギさんは何をされていたのでしょうか?

ヤギ:主に「映像翻訳」を担当していました。ロイター通信やAP通信といった海外の通信社から届くニュース映像をテレビ局向けに翻訳・処理する仕事でした。
 映像と一緒に、英語のキャプションで「カット1:救急車が走っている」「カット2:瓦礫が散乱している」といった、細かい映像の説明が送られてくるんです。それを日本語に訳していくのですが、ここで非常に重要な気づきがありました。

 それは、「映像翻訳においての主従関係は、映像(ビジュアル)が主であり、言葉(翻訳)は従である」ということです。
 たとえば、英文のキャプションに「アメリカのオバマ大統領がロシアのプーチン大統領と握手している」と書かれていても、実際に送られてきた映像を見て、握手をしていなかったら、日本語訳には「握手している」と書いてはいけないんです。テレビ局のディレクターが仮にふたりの握手シーンを探していた場合、この映像は使えないからです。

 大切なのは、言葉をそのまま翻訳することではなく、「その映像に何が映っているか」を正確に伝えること。言葉は、ビジュアルを邪魔しないように、そっとサポートするサブの役割でいい。
 この「映像がメインで、言葉はサブ」という関係性を日々叩き込まれたことは、ぼくのイラストレーターとしての考えにつながっています

――のちのイラストの仕事に、どう繋がっていくのですか?

ヤギ:現在、ぼくは書籍の本文イラストなどをたくさん描いていますが、ぼくが目指しているのは「立ち読みした瞬間に、その絵を見ただけで本の内容がなんとなくわかるイラスト」なんです。
 文章をすべて読まなくても、パッと絵を見ただけで直感的に理解できる。イラスト(ビジュアル)が主役として機能し、言葉はそれを補完する。

 逆に、最近のAI生成画像のように、情報をこれでもかと詰め込みすぎて「どこから見ていいかわからない」というイラストには、強い違和感を覚えます。また、グラフィックレコーディング(グラレコ)もいきなり完成系を見せられると意味がわかりませんよね。あれは、リアルタイムで議論がレコーディングされていくところに良さがあって、完成系からいきなり見てしまうと理解が追いつかないんです。

 本文イラストは完成系をパッと見せるものなので、過剰な情報をそぎ落とし、一番伝えたい核心だけを直感的に伝える必要があります。その引き算は、まさにあのとき、オフィスで映像と言葉の関係性と格闘しながら学んだことでした。

週4勤務と、フランスで見つけた「人生の余白」

――翻訳会社での仕事が、のちのイラストレーションの思想的な土台を作っていたのですね。しかし、そこからどのようにして、実際の「イラストレーター」としての活動が始まっていくのでしょうか。

ヤギ:翻訳会社に入社する際、実家のことで定期的に静岡に帰らなければならなくなりました。会社からは週5勤務で入ってほしいと言われていたんですが、「週4日にできないか」と交渉したんです。これが、ぼくの人生の大きな決断だったかもしれません。

――勤務日数を減らしたことが、ですか?

ヤギ:はい。週に1日、丸ごと自由になる「平日の休み」ができた。そして、何より大きかったのは、翻訳会社で働き続けたことで、人生で初めて「貯金」ができるようになっていたことです。お金の余裕と、週4勤務による時間の余裕。この二つが重なったことで、ぼくの人生に初めて「余白」が生まれました。

 それが生まれるまでは、日々の家賃を払うため、食い繋ぐためだけに必死で働いていましたが、ようやく「自分のやりたいこと(イラスト)」のために時間とお金を使える基盤が整ったんです。その余白を使って、当時フランスのディジョンにある美大に留学していた2歳上の次兄のところに海外旅行へ行きました。27歳のときです。

 まだ円高の時代だったこともあって、いまよりも気軽に海外に行けたと思います。兄も貧乏学生だったので、特別なことはほとんどしていないのですが、街並みや公園を歩くだけで面白いと思っていました。大学時代に映画で観ていたフランスに実際に行って、兄がやっているアートの話を聞いてるうちに、自分もなにかを作る人になりたい、と強く思うようになりました。

 その後、実家に帰ったとき、母親が大好きだった『スヌーピー』の絵本を目にしたんです。それまでぼくが描いていた絵は、高校時代の鬱屈を引きずった、白目のない、影ばかりの暗いイラストでした。でも、スヌーピーの、シンプルでありながら感情豊かで、愛らしいポップなキャラクターを見たとき、「こういう絵を描いてみたい。もっと明るくて、人に届く絵を描こう」という気持ちが、自然と湧き上がってきました
 自分のなかにポップさを取り込み、目をちゃんと描き、色を明るくする。そんな変化の時期でした。

――お金と時間に「余白」ができたことで、ようやく絵が変化し、道が拓け始めた。

ヤギ:そうですね。そして2010年、ぼくが29歳の頃に会ったデザイナーさんから「肩書きが多すぎる。1個に絞るならイラストがいいと思う」と、決定的なアドバイスをもらうことになります。(第3回へ続く)

ヤギワタル
1981年静岡県生まれ。制作会社にて、雑誌タイアップ広告の制作進行を務めたのち、フリーランスのライターを経験。国際情勢関連の英日翻訳をやりながら、2011年からイラストレーターの活動をスタート。現在は書籍・雑誌・広告など幅広く活動中。特に、ビジネス書や新書での挿絵や図解を担当することが多く、10年以上、活躍している。
これまで、装画・イラストを担当した書籍は200冊以上。『言語化だけじゃ伝わんない –––– 絵を描くように「考える・伝える」技術』(ダイヤモンド社)が初の単著となる。