ベルリンは、東側の中心部からやや北東寄りの場所に位置したが、西側の資本主義諸国としては、最も発展した首都を手放したくない。そこで、ベルリン内だけ、さらに東西に分けられた。

 分割されたとはいえ、当初は統治者が違うだけでベルリンの東西を行き来することもできた。ところが、地域を治める考え方が違えば、経済の発展具合も変わってくる。

 たとえば、ソ連によって社会主義に移行した東側では、何をどれだけ生産するか決めるのは政府であり、市場での自由な競争や技術革新は起きにくかった。また、ソ連への戦争賠償で、鉄道のレールや工場の機械が接収されてしまい、東側はもとのインフラが失われた状態からのスタートにならざるを得なかった。

 一方で、アメリカ・イギリス・フランスが資本主義で統治した西側では、企業の競争によって高品質かつ消費者のニーズに合うものが作られていった。また、復興のためにアメリカから強力な経済援助が行なわれたため、インフラをはじめとする人々の生活基盤が急速に整った。

 こうしたいきさつで、東ドイツと西ドイツには、埋めがたい経済格差が生じた。

貧しい東側から裕福な西側へ
人の流出が止まらない

 互いの状況をまったく知らなければ、「まあ、こんなものか」と過ごせたかもしれない。しかし、もとは同じ国だけあって、情報は入る。

 その結果、戦後から1960年代初頭にかけて、貧しい東側から裕福な西側へ、約300万もの人が流出した。その半数以上は、同じ市内で東西の行き来ができたベルリンを経由し、西ドイツに入るというルートだった。

 焦ったのは東側だ。人がいなければ、そもそも国が成り立たない。状況は深刻で、医師・看護師の出国で病院は閉鎖寸前。水道などの公共設備すら、市の係員の逃亡で不具合続出だった。

 そのとき誰かがひらめいた。西ベルリン、入れないようにしよっと。

 実現方法は、とんでもない力技だった。