人が寝静まった夜、ほんの数時間のうちに街に壁を造ったのだ。

 人がいない田園地帯などは、コンクリートでなく有刺鉄線の部分もあったが、それでも全長155キロメートル!西ベルリンはすっぽり覆われ、たまたま遊びや仕事で出かけただけの人すら、反対側に帰れなくなってしまった。

 この「壁」は、その後28年の長きにわたって東西ベルリンを分断し続けた。よじ登ったり、壁の地下を掘ったりして逃げた人もいたが、見つかれば逮捕や射殺が待っていた。ちなみに、1964年に地下道で57人が脱出した出来事は、計画に加担した人々の間で「トーキョー作戦」と呼ばれている。1964年といえば、そう、同年開催の東京オリンピックにちなむ隠語だ。

 いずれにしても、東ドイツの人々は、壁の存在や東西の経済格差に不満を募らせていった。1989年には、政府が選挙結果を操作したことで大規模な反政府デモが起き、旅行の自由化が求められた。当時は、たとえ旅行であっても国民が西側に行かないよう、政府が制限をかけていたのだ。さらにいえば、東ドイツの場合、同じ共産圏である東欧諸国への旅行すら難しかった。

 国民による反政府デモが勢いを増すにつれ、彼らに対応する役人たちは疲れ切っていった。

ドイツの運命を変えた
「夕方の記者会見」

 1989年11月9日。東ドイツ政府の広報官ギュンター・シャボフスキーは、新たな政令について書かれた紙を、記者会見用に受け取った。

 現在17時50分で、会見開始は18時。今日もバタバタだった。急いで会見の現場に向かう彼には、紙を読み込む暇などなかった。

 シャボフスキーが会場に着くと、会見が始まった。出席した記者は400人。テレビで放送もするが、特別な場ではなく、ほぼ毎週行なっている定例のものだ。今日もいつもどおり終わる。その場にいた全員が、きっとそう思っていた。

 シャボフスキーは、例の紙を開き、内容を伝えていった。紙には、このところ政府で話し合われていた旅行規制の緩和についても書かれていた。

 会見の終盤、1人の記者が手を挙げた。

「旅行の自由化は、いつから始まるんですか?」