ノートパソコンを操作する人とChatGPT・AIを表すデジタルイメージ写真はイメージです Photo:PIXTA

文章作成や校正をAIに任せれば、仕事は速くなる。しかし、言語脳科学者の酒井邦嘉氏によれば、AIによる効率化を追い求めるほど、人間の創造性が失われかねないという。「AIを使ってから自分で直せばいい」という考え方にも、重大な落とし穴がある。日本画家の千住博氏との対談から、芸術やものづくりにも通じる「効率化」の危うさを考える。※本稿は、言語脳科学者の酒井邦嘉『AI脳クライシス デジタルは人から何を奪うのか』(集英社インターナショナル)の一部を抜粋・編集したものです。

AIが示す「共感」は
フェイクに過ぎない

千住 ところで、AIに心を持たせることは不可能なんでしょうか。

酒井 現在のAIは、意図や概念、意味を含め、心という脳機能を切り捨ててしまいました。その結果、一見「便利で効率的な」システムができ、その経済効果を求めて人々が群がっているというゆがんだ状況です。AIが示す表面的な「共感性」もフェイクでありながら、人が悪魔的な誘惑を感じてしまう恐ろしさがあります。

 AIの始まりは1950年代です。初期の研究では、神経細胞を模したネットワークを作り、神経科学で得られた知見を機械化してみるところからスタートしました。初期には言語の構造化をプログラミングする試みもありましたから、そこに原点回帰して設計自体を見直せば、いずれは人間の心を反映させることができるでしょう。

 ところが、大量のデータを学習させて特徴を抽出させる「深層学習」という方法が、動作原理も分からないまま実用化されてしまいました。学問的に正しく評価すれば、このブームは必ず過ぎ去ります。

千住 同じようなことは美術界でもあるかもしれません。最近、華々しくオークションや展覧会などをやっている画家の中には、助手を10人も使って描いている人がいます。どんな作品かと言えば、AIが描いたような作品で、さながら「人間AI」です。アートディレクターが指示を出し、助手が言われたままに機械的に描いているだけですから。そこには画家が感じた激しい人間的感動などがありません。工業製品を量産しているようなものです。

 私は以前、美大の予備校で教えていたことがあります。美術の基礎はデッサンなので、お決まりの石膏像のデッサンなどの授業があって、どこの学校の美術室にも置いてあるようなありふれた人物像を描くわけです。

 それでも私がデッサンの授業で学生たちに言ったのは、まずモチーフを見て感動するということです。「なんて素晴らしいんだろう。自分ならこれを描ける」と強く思い、実際に口にしてみる。そうすれば自然と心が動くんですよ。そして、心から感動した者だけが、次の段階に進むことができる。うまく描くのはそれからなんです。

売らんかなの姿勢が
芸術を堕落させる

 確かに狩野派の時代にも絵師の集団がありましたし、ルーベンスやレンブラントなどヨーロッパの画家たちも、工房制で何人もの弟子たちが一緒に仕事をしていました。しかし狩野元信や狩野永徳は真の天才だったから、大勢を掌握できたんです。メトロポリタン美術館などに行けば、工房制が盛んだった18世紀ヨーロッパの絵がずらりと並んでいますが、どれもAIが描いたようで本当につまらない。感動の心が伝わってこないのです。

 そう考えると、AI的な発想の危険性は、昔から私たちの身近にあったわけです。つまり、さまざまな情報をデータとして集積して、その中の最適解を出していくという作業です。

酒井 売らんかなの姿勢が芸術を堕落させるのですね。現在のAIも経済効果と結びついたがゆえに、衰退の一途をたどるでしょう。

 工房での分業化というのは、デジタル化に近い気がします。たとえばヴァイオリンの製作では、木を削る係、膠で組み立てる係、ニスを塗る係、と分担すれば効率的でしょう。しかし、それぞれの工程が一定の水準にあったとしても、できあがったヴァイオリンは、音響的にも平均的なつまらないものにとどまります。