「自由の国」アメリカ。その原点をたどると、意外にも「自由」と「奴隷制」が同じ場所で育っていった歴史に行き着く。舞台は1600年代のヴァージニア。ここでは植民地議会による自治が始まる一方、タバコ農園の拡大とともに奴隷労働も広がっていった。のちのアメリカを形づくる政治、経済、人種問題の原型は、いかにして生まれたのか。『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からのアメリカ史』から、その始まりを紹介する。

「自由」と「奴隷制」は同じ場所から始まった? ヴァージニアというアメリカの原点Photo: Adobe Stock

植民地時代のアメリカ:1607年~1780年代

 1500年代、アメリカ大陸はスペインとポルトガルに支配されていた。

 しかし、1600年代と1700年代になると、北アメリカの東海岸に新たな勢力が登場する。これらの入植者たちは、自分のことをイギリス人とみなしているけれど、同時にヴァージニア人やペンシルヴェニア人、ロードアイランド人でもあると思っていた。そこにアメリカ人という認識はなかった。

 ところが、フレンチ=インディアン戦争後は、入植者たちはイギリスからの独立という信念に基づいて団結するようになる。やがて、こうした植民地は、それぞれ独立した州となり、州が集まって「合衆国」が誕生する[訳注:stateの日本語訳については、アメリカ合衆国憲法の発効までは「邦」、発効後は「州」と区別して訳すこともあるが、ここではすべて「州」とする]。

ヴァージニア:すべての始まりの植民地

 1614年に、ジェームズタウン一帯がタバコの栽培に向いていることがわかると、植民地は変化し、拡大していった。初期の入植者たちは、プランテーションの建設を始めた。成功したプランテーションの所有者たちは、本国に残してきた妻子や、年季奉公人の渡航費用を負担することで、さらに富を増やすことができた。

ヴァージニア植民地議会

 植民地の裕福な男性は、イギリスに住むイギリス人男性と同じように、自治に関する規則づくりに参加したいと考えるようになる。1619年、立法府であるヴァージニア植民地議会(ハウス=オブ=バージェシズ)が、初めて招集された。ヴァージニア会社の監督のもと、植民地人たち自身で代議政治がおこなわれることになった。

第二次アングロ=ポーハタン戦争

 ヴァージニア会社は植民地人に土地を与え続けていたが、その土地にはすでにポーハタン連合の強い先住民たちが暮らし、農耕をおこなっていた。入植者とポーハタン族のあいだには平和な時期もあったけれど、ジェームズ川沿いの土地にどんどんタバコ農場が増えていくと、オペチャカヌウ族長が率いるポーハタン族は不安になった。

 ポーハタン族は、高貴な身分の相談役がイギリス人に殺されると、それをきっかけに蜂起し、入植者1200人の25パーセントを殺害した。これで入植者は出て行くだろうと考え、彼らは退却した。ところが、入植者は報復したため、第二次アングロ=ポーハタン戦争が勃発する。それからの10年にわたり、激しい戦いが続いた。

 ヴァージニア会社は、入植者を守ることも、入植地を守るための費用に見合うだけの利益をあげることもできずにいた。1624年、国王ジェームズ1世は、ヴァージニア会社の特許状を取り消した。ジェームズタウンは王領植民地となり、王の統治下におかれた。王は、自らの代理として植民地を治める総督を選んだ。

 ヴァージニア植民地議会は一時的に不安定な立場に置かれたが、その後も続き、1639年にはチャールズ1世により、権限を認められた。

労働力不足

 先住民の抵抗に加え、植民地では労働力不足も深刻な問題だった。食料不足と劣悪な労働環境により、死亡率は50パーセントにものぼり、イギリスからやってくる年季奉公人も減りつつあった。

 1619年、ジェームズタウンにアフリカ人奴隷が初めて連れてこられると、入植者たちは、より多くのアフリカ人奴隷を労働力として使用するようになる。これはつまり、アフリカ系の奴隷と年季奉公人が同じプランテーションにおいて、ひどい労働環境のもと、肩を並べて働くということだった。その結果、彼らは手を組むことや(たとえば、協力して逃亡したり、暴動を起こしたり)、友好関係を築いたり、家族になったりすることもあった。

 労働者たちのこうした団結は、地主たちを不安な気持ちにさせた。

あいまいな労働基準

 一方で、奴隷たちは、法律の抜け穴を見つけ、法制度を利用して自由を勝ち取ろうとしていた。

 1655年、アフリカ人奴隷の女性と、その主人である白人男性のあいだに生まれたエリザベス=ケイという奴隷の女性が、息子と自分の自由を求めて訴訟を起こした。裁判で彼女を助けたのは、のちに夫となるウィリアム=グリンステッドだった。彼もまた、かつては年季奉公人だった。

 彼らはイギリスの法律に基づき、子どもは父親の身分を受け継ぐことになっていると主張した(エリザベスの父親は、自由民だった)。またイギリスの法律は、キリスト教徒を奴隷にすることを禁じていて、エリザベスはキリスト教徒だった。エリザベスとウィリアムは裁判に勝ち、彼女と息子は自由の身になった。

 地主たちは、エリザベスの訴訟がどうなるのか、かたずをのんで見守っていた。というのも、裁判の結果が判例となり、さらに多くの奴隷が解放を求める力になるとわかっていたからだ。