2001年9月11日、アメリカを襲った同時多発テロは、ブッシュ政権の進路を大きく変えた。減税や教育改革を掲げて始まった政権は、やがてアフガニスタン戦争、イラク戦争へと突き進んでいく。なぜ9.11は、アメリカの外交と国内政策をここまで一変させたのか。2000年大統領選の異例の決着から「対テロ戦争」まで、『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からのアメリカ史』からブッシュ時代の転換点をたどる。

【アメリカ史の転換点】9.11でブッシュ政権の政策はなぜ激変したのか?Photo: Adobe Stock

ブッシュ対ゴア

 2000年、クリントンの副大統領アル=ゴアは、テキサス州知事でジョージ=H=W=ブッシュの息子である共和党候補ジョージ=W=ブッシュと大統領選を争った。

 選挙は接戦だった。実際、あまりに接戦で結果が出なかった。ゴアは一般投票で勝利したけれど、フロリダ州での集計をめぐって選挙人の結果が疑問視された。ゴアは4つの郡で手作業による再集計を求めた。ブッシュは再集計の阻止を訴え、訴訟は最高裁判所に持ち込まれた。

 2000年12月12日、ブッシュ対ゴア事件を審理した最高裁判所は、手作業での再集計は統一した方法でおこなえないため、法の平等な保護に反するとした。また、連邦法で定められた期限内に、代わりとなる再集計方法を確立することはできないとの判断も示した。フロリダ州での投票結果がそのまま確定し、ブッシュが大統領に就任した。接戦の選挙は党派の激しい対立(いまも続いている)を招き、上院の議席数が50対50で割れたことによって溝がさらに深まった。

同時多発テロ事件で変化した政策

 ブッシュ大統領は減税の選挙公約を果たした。また、教育の質を高めるために「落ちこぼれゼロ法」に署名し、各州に学力基準と学力テストにもとづく評価を求め、閣僚には多様な人材を任命した。ところが、ブッシュの政策は、2001年9月11日の朝の出来事によって一変する。

 その朝、テロリストたちは4機の旅客機をハイジャックした。2機はニューヨーク市の世界貿易センターに激突し、アメリカの経済力の象徴であるツインタワーを倒壊させた。3機目はアメリカの軍事力の象徴であるペンタゴンに突っ込み、4機目は勇敢な乗客たちがテロリストのくわだてを阻止しようとした結果、ペンシルヴェニアの平原に墜落した。犠牲者は何千人にものぼった。アメリカ人の愛国心が高まり、世界中の同盟国から支援が寄せられた。

対テロ戦争

 テロ攻撃は、アル=カーイダとその指導者ビン=ラーディンによって計画された。この組織には、イデオロギーを共有し、アフガニスタンで訓練されたさまざまな国の出身者がいた。アフガニスタンを支配していたイスラーム原理主義勢力ターリバーンは、ビン=ラーディンをかくまっているとみられた。2001年10月7日、アメリカとその同盟国はアフガニスタン戦争を開始した。ターリバーン政権は崩壊したけれど、影響力は残り、攻撃と戦闘はその後20年間も続いた。

 ブッシュ大統領はやがて標的をイラクに切り替えた。彼は具体的な証拠なしに、サダム=フセインが生物化学兵器や核の大量破壊兵器を保有していると危機感を表明した。多くの同盟国がアメリカに対し、国連の査察のための時間を与えるように求めたけれど、アメリカは(イギリスの支援を受け)2003年3月にイラク戦争に踏み切った。

 アメリカはこれを「イラクの自由作戦」と呼んだけれど、世界の多くの人々はアメリカによる侵略とみなした。バグダッドは占拠され、サダムは排除された(裁判にかけられ、処刑された)。そして、大量破壊兵器は見つからなかった。

 それでも、アメリカはイラクとアフガニスタンで駐留を続けた。国家建設のためにはそれぞれの地域が安定するまで影響力を行使する必要があるとされたけれど、安定は決して訪れなかった。反乱勢力がアメリカ軍に攻撃をしかけ、イスラーム教の派閥どうし(特にスンナ派シーア派)が権力を争う状況が続いた。

同時多発テロ事件が国内に変化をもたらす

 2001年10月、ブッシュは米国愛国者法に署名した。これはテロ活動への関与が疑われる人物を調査する、法執行機関の権限を強化するものだった。多くのアメリカ人は、この法律は市民の自由を奪うものだと反発した。さらに、議会は国土安全保障省の創設を承認し、2003年に業務が開始された。この新しい政府機関の使命は、将来のテロ攻撃を防ぐこととされた。

 ブッシュは大統領として2期目を勝ち取ったものの、戦争が長引くにつれて、さまざまな問題への対応に批判が高まり、2006年の中間選挙では、上下両院の多数党の座を民主党に明け渡すことになった。