自治会の役員が回ってくるのが憂鬱だ、回覧板や清掃当番が煩わしい――そう感じてしまう自分に、どこか後ろめたさを覚える人は少なくないだろう。だが、ピーター・F・ドラッカーが『ネクスト・ソサエティ――歴史が見たことのない未来がはじまる』に書き残したコミュニティ論をたどると、その感覚がどこから来ているのかを、道徳の問題としてではなく考え直すことができる。本連載では、膨大なドラッカーの著作を読み返し、その中から令和の現在に役立つ知を取り出して紹介していく。(構成:ダイヤモンド社書籍編集局)

煩わしさは正しかった
ドラッカーの『ネクスト・ソサエティ』には、昔のコミュニティについて、ずいぶん冷たい書き方がしてある。
これまで田舎社会はいたずらに美化されてきた。欧米では牧歌的に描かれてきた。だが、田舎社会のコミュニティは強制的かつ束縛的だった。
――『ネクスト・ソサエティ』より
例に挙がるのが、1940年代の終わりまでドラッカー自身が暮らしたアメリカ・バーモント州の田舎町の電話交換手の話だ。手動交換機の時代、受話器を上げれば必ず誰かが応じた。
ところが、子どもが熱を出したので医者につないでほしいと頼んでも、先生はデート中だ、それほど悪くないなら朝まで待ってはどうか、と返されることがまれではなかった。
自動交換機が入ったとき、町中が喜んだ。本書には、かつてのコミュニティは束縛的だっただけでなく侵害的だった、と書かれている。
人が田舎から都市へ出たがった本当の理由がこれだった、とドラッカーは言う。煩わしさは、気のせいではない。それは関心の薄さでも、冷たさでもない。
自由で任意という条件
もっとも、本書はそこで終わらない。都市は人を強制と束縛から解放した。だが、それ自体のコミュニティをもちえなかったために破滅的だった、と続ける。
人はコミュニティを必要とする。建設的な目的をもつコミュニティが存在しないとき、破滅的で残酷なコミュニティが生まれる。
――『ネクスト・ソサエティ』より
誰ともつながらない匿名の場所には、耐えられない人が出てくる。排他的な小集団のなかにだけ居場所を見いだし、そこでしか呼吸できなくなる、という事態が起きるのかもしれない。
煩わしさから逃れた先に、静かな空白があるわけではない。空白は空白のままでは残らない、というのが本書の見立てである。
日本の世帯構成も変わった。単身世帯が全世帯に占める割合は、2020年時点ですでに38.0%に達し、2040年には4割を超えると見込まれている(国立社会保障・人口問題研究所2024年推計)。煩わしさを手放した先に何を置くかは、以前より重い問いなのかもしれない。
では、どういうコミュニティならよいのか。ドラッカーは条件をはっきり書いている。
それはかつてのコミュニティとは異なり、自由で任意のものでなければならない。それでいながら、都市社会に住む一人ひとりの人間に対し、自己実現し、貢献し、意味ある存在となりうる機会を与えるものでなければならない。
――『ネクスト・ソサエティ』より
自由で任意であること。そのうえで、貢献でき、意味ある存在になれること。この二つを同時に満たせ、という。
これは物差しになる。入るのも抜けるのも自由か。そう問うだけで、身のまわりの組織がどこに立っているかは見当がつく。
では、日本の自治会は、この物差しでどう見えるだろうか。
制度は任意、実態は違う
自治会・町内会は、制度の上ではこの条件を満たす。地方自治法は、地縁団体の認可について、行政組織の一部とすることを意味するものと解釈してはならないと定める。加入や脱退も住民の任意とされる。ただし全国に約30万ある自治会等の多くは、法人格すら持たない任意の集まりである。
ところが実態は違う。総務省の「地域コミュニティに関する研究会 報告書」(令和4年4月)によれば、加入率を継続的に把握する600市区町村の平均で、10年のうちに78.0%から71.7%へ下がった。
一方、自治会等に頼まれる仕事は増えた。高齢者の見守りを依頼する市区は、2008年の46.9%から2020年には62.3%へ増えている。委員の推薦や、子育て支援への協力といった業務も、同じように自治会側へ流れ込んでいる。加入率は下がり、仕事は増えた。報告書自身、本来対等であるべき関係が下請けのようだと指摘する。
抜けていく人が増える組織に、なぜ仕事だけが集まるのか。ドラッカーは別の章でこう書く。
他方、企業、労働組合、大学、病院など今日の組織は、それぞれの機能を基盤とする。それらの組織は、まさに単一の機能に焦点を絞ることによって成果をあげる。
――『ネクスト・ソサエティ』より
一つに絞るから成果が出る。だが絞るほど、機能で割り切れない仕事の行き場がなくなるのではないだろうか。自治会は、機能を絞っていない数少ない組織である。
一度取り下げられた答え
ドラッカー自身、一度は別の答えを出し、そして取り下げている。それを本書で自ら明かしている。
50年以上も前になるが、私は『産業人の未来』(1942年)において、職場コミュニティと名づけたもの、すなわち当時出現したばかりの大企業という社会環境に期待した。それはある一つの国でだけ機能した。それが日本だった。
――『ネクスト・ソサエティ』より
その日本の職場コミュニティでさえ答えにならなかった、と彼は書く。企業は生計の資を得る場所ではあっても、生活と人生を築く場所ではない。機能を基盤とする社会にすぎないからだ。
彼が代わりに挙げた答えはNPOだった。誰もが自由に選べるコミュニティを用意できるのは、そこしかないという。ただし自治会は、その意味でのNPOには当たらない。選んで入るものではなく、そこに住むことで関わりが生じる地縁の団体である。
自治会が立っているのは、自由で任意であることと、機能で割り切れない全体を引き受けることを、同時に求められる位置だ。任意であろうとすれば全体は引き受けられず、全体を引き受けようとすれば任意ではいられなくなる。
役員が回ってくるのを憂鬱に思うとき、そこにあるのは、たぶん怠惰ではない。両立しにくい二つを同時に引き受けさせられている、その軋みのほうなのかもしれない。





