なぜ信長は四国政策を変えたのか?

 信長の方針転換の裏には、四国に勢力を持つ三好氏と羽柴秀吉の接近がありました。

 もともと信長は、長年自身に敵対していた三好氏を牽制&消耗させる目的で長宗我部元親を利用しようと考えていたのですが、天正3年に三好一族の重鎮・三好康長が信長に降伏したことと、長宗我部元親が予想以上の勢いで四国に勢力を拡大したことなどから、信長は三好氏より長宗我部元親の方が危険だと警戒を強めることになったのです。

 また、中国攻めを進めていた秀吉にとっても、瀬戸内海の制海権を握るために三好康長との連携は不可欠でした。近年では、織田家で光秀に対抗しようとした秀吉が三好氏と急接近し、信長に四国政策の変更を働きかけ、それにより織田家での立場を失うことを恐れた光秀によって本能寺の変が起こったのだとする説も注目されています。

 こうして「長宗我部元親利用」から「三好保護・長宗我部抑制」へと舵が切られた直後の天正10年6月2日、本能寺の変が勃発。四国討伐は中止となり、長宗我部元親はまさにギリギリのところで窮地を脱したのでした。

四国の旧国名 Pic:Diamond四国の旧国名  Pic:Diamond
明智光秀が長宗我部元親と親密にしていたのに対し、瀬戸内海の制海権を握り、光秀に対抗するために秀吉が三好康長に接近したことが、本能寺の変のきっかけになったのではという説もある(C)NHK明智光秀が長宗我部元親と親密にしていたのに対し、瀬戸内海の制海権を握り、光秀に対抗するために秀吉が三好康長に接近したことが、本能寺の変のきっかけになったのではという説もある (C)NHK