秀吉の四国政策と秀長の活躍
信長の死によって命拾いした長宗我部元親でしたが、安寧の時は長く続きません。
明智光秀を討ち、信長の天下人としての地位を受け継ごうとした秀吉が、「長宗我部討伐」という信長時代の路線を変えようとしなかったからです。
そのため長宗我部元親は、賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家と、小牧・長久手の戦いでは徳川家康&織田信雄と結び、徹底して秀吉に対抗する姿勢を見せました。一方で、その間も着々と四国制圧を進めていたのです。
しかし、天下固めを進める秀吉は、天正13年(1585)、ついに本格的な「四国征伐」を開始します。この四国討伐軍の大将を務めたのが、秀吉の弟・羽柴秀長(小一郎)だったのです。
秀長は、紀伊湊から渡海し、三好信吉(のちの秀次)や宇喜多秀家、黒田官兵衛や蜂須賀小六、さらに小早川隆景らの毛利軍とも連携して、阿波・讃岐・伊予の三方向から怒涛の進撃を展開しました。
秀長は四国攻めの総大将となり活躍する (C)NHK 拡大画像表示
阿波の木津城や一宮城が陥落すると、長宗我部元親は逃げ場を失い、秀吉軍の圧倒的な力を思い知ったためか、ついに降伏を決意します。最終的に長宗我部元親は「土佐一国の領有」を条件に、秀吉と和議を結んだのでした。
多方面から攻め寄せられた長宗我部元親は、四国一統を諦め、ついに降伏を決意する (C)NHK 拡大画像表示







