「死」を病院と専門家に
預けてしまった現代人
ここでタテの目も、当てておきましょう。いまの日本人は長寿化によって、人類史上、もっとも死ににくい人々です。しかし、100年前までは日本人の平均寿命は50歳にも満たなかったのです。子どもの何割かは、大人になる前に亡くなりました。感染症一つで、人はあっけなく世を去りました。あなたの曽祖父母の世代にとって、死は、いつも暮らしの隣にいたのです。彼らが特別に強かったのではありません。死が身近だったから、身近なものとして扱う知恵と作法が、暮らしの中にあったのです。
現代の僕たちは、死を病院と専門家に預けた結果、史上最長の寿命と引き換えに、死を「見たことのない、得体の知れないもの」にしてしまいました。死の恐怖が膨らんだのは、死が増えたからではなく死を見なくなったからなのです。
もちろん、統計の数字と、自分の死は、別物だと感じられるでしょう。1日4300人という数字は、他人の死の集計であって、僕の死ではない、と。その感覚は、正しい。ミクロの視点では、あなたの死は、世界にたった一つの、取り替えのきかない出来事です。それを軽んじるつもりは、毛頭ありません。
僕が言いたいのは、順番の話です。まず、死は万人に毎日起きている当たり前の現象だという事実(マクロ)を土台に置く。そのうえで、自分の一回きりの死(ミクロ)を考える。この順番だと、死は「得体の知れない化け物」から、「必ず来ることがわかっている、自然の手続き」に変わります。恐怖の正体は、輪郭のなさです。数は、死に輪郭を与えてくれる。それだけで、死の恐怖はずいぶんおとなしくなるはずです。
出口治明さん近影 画像:扶桑社
ブッダを訪れた
子を亡くした母親
もう一つ、今度は、2500年前の物語をお伝えしましょう。これは、仏教に伝わる、有名な説話なので、ご存じの人も多いかもしれません。







