ついでに言えば、同じ知恵は、日本の暮らしの中にも、ちゃんと埋め込まれていました。通夜、葬儀、初七日、四十九日、初盆、一周忌。あの一連の営みは、悲しみに沈む人を、強制的に人の輪の中に置き、自らの手を動かし、段階を踏んで少しずつ死を受け入れさせていくための先人の設計した装置です。そして弔いの席では、参列者の誰もがそれぞれの死別の経験を胸に座っています。

 芥子の実を探して回らなくても、あの席に座れば、「死者を出したことのない家はない」ことが、自然と染みてくる。近年、こうした営みはどんどん簡略になっていますが、その分だけ悲しみを受け止める装置も減っているのだということは、知っておいてもよいのではないかと思います。

心臓が止まる日まで
学び、変わり続ける

『老いと死をファクトで考えてみた』書影『老いと死をファクトで考えてみた』(出口治明、扶桑社新書)

 僕には、死への不安がありません。強がりではなく、本当にないのです。

 なぜないのか。それは、マクロで見れば、人間の死は138億年の営みの中の、ありふれた一瞬だとファクトでわかっているからです。死は、数で見れば、日本でも毎日4300人に起きている打率10割の自然現象です。歴史で見れば、僕よりはるかに偉い人たちが、全員、先にくぐっていった門です。これだけの事実を積み上げたうえで、なお死を「特別な恐怖」として扱い続けるのは、僕にはかえって難しい。

 また、精神的な死もありません。死とは身体的な死のみ。心臓が止まるその日まで、人は学べるし、変われます。だから、死の前日まで、僕の仕事は変わりません。生きることです。そして当日、僕の身体は活動を終える。それだけのことです。