すでに少しばかり古い話題になってしまっているが、今年の日本シリーズ最終戦最終回での楽天・田中投手の登板には、単なる試合以上の何かを見た人も多かったのではないかと思う。 それは、東北の新興チームの優勝とか、前日の試合で160球を投げながらもクローザーとしてマウンドに立った田中の「絶対的なエース」としての矜持や、その田中を送り出した星野監督の男気などといったものへの、単なる「感動」といったものだけではなく、もっと大きな「何か」である。

 あの日、仙台の「日本製紙クリネックススタジアム宮城」という、例の震災で甚大な津波被害を受けた石巻工場を有する日本製紙の名を冠した、その球場を埋め尽くした約2万5000人のファン。そして、そして関東地区27.8%、仙台地区44.0%、瞬間最高視聴率60.4%という驚異的な視聴率を記録した、数多くのテレビ視聴者が見たものはなんだったのか。 それは、「なにかを背負うことの偉大さ」であり、そこから生み出される「人間の尊厳」、「カッコイイとは、こういうことさ!」ということだったのだと思う。

脳裏をよぎった
かつての「リリーフ事件」

 日本シリーズ最終戦の最終回という最高の舞台で、誰もが田中の登板を予想し、そして期待するなかで、僕の(そして、多くのオールド野球ファンの)頭をよぎったのは、2007年の日本シリーズのことである。

 この年の日本シリーズは中日ドラゴンズと日本ハムファイターズの戦い。そして、中日が3勝1敗で優勝に王手をかけた第5戦。中日の山井大介投手は8回まで1人の走者も出さないピッチングを続けていた。この時、中日は1対0でリード。このまま井出が9回表の日本ハム打線を押さえれば、日本シリーズ初の完全試合達成という場面だったのだが、9回表の日本ハムの攻撃、なんと落合監督は山井を引っ込め、リリーフを送ってきたのだった。

 この「リリーフ事件」については賛否両論ある。試合後、「山井は4回あたりから右手中指のマメをつぶしていた」「山井のメンタルでは、これ以上投げるのは無理だった」という関係者からの発言もあったようだ。 しかし、真相がどうであれ、あるいはどのようにこの継投策を評価するにせよ、結果として「多くのファンの夢が失われた」ことは事実だ。もし、そのまま山井が投げて日本ハムに打ち込まれて試合に負けたとしても、それは単に夢が破れただけの話だ。しかし、「夢に挑み、それに敗れたこと」と、「夢が失われたこと」はそもそも意味が違う。

 しかし今回、落合監督と違って星野監督は投手出身。投手の身体のことは誰よりも分かっている。だからこそ、前日に160球も投げたピッチャーに連投させることはできないという予測もできた。ましてや、中継ぎの則本も完全に巨人打線を押さえ込んでいた。これで(前日、巨人に打ち込まれていた)田中を出して、逆転を許していたらどれだけの批判を浴びるかわからない。田中の肩のことだけでなく、監督としての保身を考えれば、絶対に田中の起用はあり得なかった。

 しかしそれではドラマは生まれない。そして星野は、保身より、リスクをとってでもドラマを作りに行くだろうと僕は思った。そして実際に、田中を送り出した。つまり、勝利を背負って山井を引っ込めた落合と違って、星野は確実な勝利よりも、ファンの夢を背負ったのだ。